(115) 「古城のほとり」


(上)イランの古城の遠景 (1)
(下)上の古城の部分近景 (2)
 以前は倉敷考古館を訪れる人から、「ここの城は何処にありますか?」とか「ここの前は城のお堀ですか?」というような質問を、かなり耳にしていた。しかし最近は聞いた覚えがなくなっている。

 この質問者の多くは、大原美術館をはじめとして、考古館・民芸館などの博物館を目的に倉敷を訪れた方たちのようだった。また博物館周辺に城の堀を思わす、石積み護岸の水路が巡ることで、あるいはここも城下町であろうかと、城などにも関心をもつ方たちだったようだ。

 今では倉敷も古い倉の続く町並みということで宣伝され、一応著名な観光地となっている。その町並みだけを見に訪れる人が多くなったためだろうか。古い倉の風景には憧憬を持つが、他は別の関心、ファッションや食事などへの関心が高い人が多くなったようだ。

 ただ現在倉敷を訪れている多くの方たちも、倉敷の町並みに関心のある人なら、「古城」と言えば、何らかの感懐もある方たちではなかろうか。

 古城といえば「荒城の月」の歌詞が思い浮かぶ人は今も多いだろう。しかし島崎藤村の詩の一節「小諸なる古城のほとり」などと言えば、もはや博物館展示品と言われそう。杜甫の「城春にして草木深し」は、漢文教科書の冒頭辺りにあった筈だが、「国敗れて 山河あり」に続くフレーズでもあり、案外多くの人の記憶にあるのでは・・・・・ともかく古城は詩情が漂うようである。

 先回はイランへの小旅行で「ついで」に目にした橋を話題にした。これもその「ついで」のついでで、先の話題で、キャラバン宿の前に架かるレンガの橋を示したが、実はこれらのすぐ近くで目にしたのが、ここの写真(1)・(2)に示した古城なのだ。

 砂漠の中の道は、りっぱな2車線の舗装道路が延々と続いていた。車窓の遠くや近くは、草木の陰さえないただただ岩や砂の山・丘・平地、そうしてどこまでも青い天空ではあるが、刻々に異なる姿となって眼前に現れ、飛び去って行く。そのためただ砂漠の中と思っていた、かなり長時間のバス移動も、変幻自在の自然のパノラマに、退屈する暇は無かった。

 こうした風景の中で、時に遠くの山頂に、明らかに人の手による城らしい姿や、見張り台らしい姿を目撃することもあった。人の匂いのする僅かな緑を目にすることもあった。

 「アッ!城だ!」急に車窓に映った近い姿は、上の写真(2)のようなものだった。それからすぐにバスが停まった。そこが、先回話題のキャラバン宿の近くだった。その辺りからつい先ほど過ぎ去った城の姿が、写真(1)のようなものだったのである。

 16〜17世紀頃からの城だと言うことだが、城の名はそこの村名であって、詳しい説明は聞けなかった。この城の歴史は分かっているのだろうか。かつての「王の道」と言われたような、重要な砂漠の道筋で、キャラバン宿が出来るような地点である。

 王の出先の城なのか、それとも地域の土豪の城なのか、いずれにしても、日干し煉瓦と思われるもので積み上げられた、かなりな規模の城。おそらく多くの物語をレンガの重なりの中に塗りこめていたことだろう。まさに崩れ行きつつある荒城との、一期一会の一瞬の出逢いだった。忙しい僅かな時間、仲間に遅れないように、た だただカメラのシャッターを切っていた・・古城での感懐どころではない・・・。

岡山市東区沼にある亀山城跡、左方小学校が西の丸、中央が本丸、右方が二の丸跡 (3)
 このイランでの偶然の古城との出逢いは、つい先の9月(2011年)のこと。実は同じ月の内に、岡山ではちょっと知られた古城跡へ行く機会があった。倉敷でのことではないのだが、イランに比べれば、ついそこのこと。岡山市東区沼にある亀山城跡。

 この城跡のあるところは、岡山駅から言えば東方、東岡山駅と瀬戸駅の中間辺りで、山陽新幹線と山陽線が、この城跡のすぐ西脇で交差しており、新幹線が城跡の北を掠めるように走っている。もしも城があったときなら、高架で走る新幹線の窓は、本丸の櫓と顔を突き合わせていたかもしれない。

 かつて豊臣秀吉の時代、岡山城主であった宇喜多秀家(彼は関が原の合戦では西軍の将であり、敗れた後、八丈島に流され、その子孫はその地で明治まで続いていたことは、歴史に興味のある方には周知のことだろう)その秀家の父である直家が、長く居城としていたのが、この亀山城である。

 宇喜多直家は裸一貫から、戦国大名にのし上がった人物とされるが、特にその地歩を固めたのが、この城でのことだったようだ。その後、直家は岡山城に入り、この亀山城は宇喜多一族の城となった。関が原の役で、東軍に寝返った事で有名な小早川秀秋が、その後、岡山城主となった時、この城の三層の天守閣を岡山城の一角に移築し、大納戸櫓になったとも伝えられる。

 由緒の方はかなり知られた古城跡なのだが、この亀山城の全景は写真(3)のように、遠景はただの木の茂る小山である。左方の西の丸は、浮田小学校用地。本丸跡とされる地には神社が建っているが、周辺のほとんどは、樹木と竹やぶで足も踏み入れられないところが多い。裾の曲輪には人家がめぐる。

 本丸には石垣は無いが、土塁などが残るとされているが、訪れた時が悪い。9月の小雨混じりの曇天。城兵ならぬ蚊の大群に襲われ、宇喜多氏を思う感懐どころではない。ともかく早く逃げ出すことを考えた。

 この城の盛期は16世紀も後半、イランで目にした城もその頃からとか・・・同じ古城でも、砂漠の侵食か、樹木の侵食か、いや子孫である人間の侵食も・・・・現代であったら芭蕉も「つわものどもが 夢のあと」の上の句を、どのように表現しているだろうか・・・・・

                          ・・・古城のほとりでのある日・・・


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