(116) 似たものを作った人間

写真(1)
左2列 岡山県倉敷市鷲羽山と
右2列 イラン カシャンのテペ・シャルクで採集
 左写真(1)の石片、石器にまったく関心の無い方でも、よく見ていただくと石器だと納得されると思う。形はそれぞれ違っていても、細かく剥ぐような割れ痕には、使う時に必要な刃や尖りや形を作る意図が読み取れるはず。私たちと同じ人間が考えたことなのだから・・・・

 この写真の石器は、全て今から半世紀も前の頃、地表に転がっていたものの採集品である。しかも写真の真ん中で分けた左右では、石の質も違う、使用された時期・地域も大きく違っているのだ。しかし互いは良く似たものに見える。やはり同じ「人間」が作ったものだからだろうか。

 写真(1)の左二列の4点は、倉敷市南端の一角、瀬戸内に低い台地状の岬として延びている景勝地・鷲羽山として知られるところから、拾われていた数多くの石器の一部である。

 2次大戦中からその後にかけては、こうした場所は、落ちた松葉も枯れ枝も、根こそぎ日常の生活用燃料になったため、山肌は禿げて大雨が降るごとに、土中からこうした石器が顔を出していたのである。少なくとも1〜2万年は前のもの。

 戦後間もなく、群馬県の岩宿で発見された石器が契機となり、わが国の人間の歴史が、万の単位に遡ることが話題になった。日本各地で旧石器遺跡(断るまでも無いことだが、これは数年前に前期旧石器時代捏造事件が発覚した事とは、全く違った古い話である)が注目され、そうした遺跡が西日本で発見される、さきがけともなった石器の一群が、この鷲羽山採集のものだった。・・・現在考古館の旧石器時代の中心的な展示品ともなっている。

 ところで写真(1)の右二列の石器は、先回や先々回に話題とした、イラン国の砂漠中の小丘周辺で、これも半世紀ちかくも昔に採集されていたもの。こちらの石器は、イランのカシャンという町の近くにある、テペ・シャルクと呼ばれている、農耕や牧畜が行われ出した頃からの遺跡周辺採集として、当館に保管されている。この遺跡は北と南に2つの丘が並び、8000年ばかり前から次々生活の跡が重なって、丘が出来上がったものであった。

 この遺跡は80年も昔から、イギリスの学者によって発掘もされ、イランの新石器時代の基準の一つにもなっていた遺跡だったのである。古い概説書などで見た砂漠の中に低い丘陵として横たわっていた風景が、砂漠の遺跡の典型として、意識に定着していた。

 このところイラン旅行を話題にしてきたが、この時訪ねる予定コースにカシャンの町があった。このテペ・シャルク遺跡は町から僅か5kmと聞いていたので、ここへの立ち寄りを希望したが、さそりがいるので遠景だけという話になっていた。

写真(2) テペ・シャルク南丘 写真(3) 南丘より北丘を見る。すぐ向こうはカシャンの市街地
 バスの車窓から、砂漠の中に多少家や緑が見えてきて、カシャンの町も近いのかなと思ったとき、人家の横でバスが停車した。通訳のガイド氏が下車をうながし、先にたって人家の横の道を行った。この先で、遺跡の丘が遠くに眺められるのだろうと思いながら、みんな後に従った。人家と家の周りの小さい畑、ここは日本の郊外の農村風景に近いかな、など思いながら、人家の切れ目をひょいと見て驚いた。その時の景色が、左の写真(2)だった。

 テペ・シャルク南丘がそこにあった。すぐ横には、小さいながらも資料館があり、発掘に参加している人が、説明もしてくれた。今は国指定の史跡として整備・調査もされているらしい。他の見学者も若干見える。遺跡は枕木を並べた通路で、頂部まで道が整備されていた。重要な部分には屋根もかけられていた。

 みんなの上れた丘陵は、日干し煉瓦で3段に大きな階段状に築かれた、階段神殿とも言われるジグラットとのこと。この南丘頂部から北方に、南丘の遺跡より古いとされている北丘が望めた。その風景が写真(3)である。北丘は砂漠の中でなく、市街地を背景としていた。

 僅か10日足らずの駆け足のイラン旅行では、町中のあちこちの小溝まで、澄んだ水が勢い良く流れているのを見たのは、このカシャンの町だけだった。先にこの欄で書いたように、何処に行っても、地上を流れる水は見えなかった(公園内は別だが)。

 テペ・シャルクを広大な砂漠の中においた姿で考えていたのは、大間違いだった。むしろ現在周辺まで市街地が進出しているほうが、本当の姿であろう。町を、村を作りうる条件、豊富な水が、幾千年来この地を潤わしていたからである。

 市街地に囲まれた低丘陵、かつてはその丘の地に、人家や生産の場や神殿がひしめき、周辺は、緑の樹木や畑で覆われていたのだろう。今目にした市街地の中に、むしろ遠い昔この辺りで石器を使っていた頃の、豊かな景色を見た思いだったのである。

 ところでわが国の、この倉敷の鷲羽山での旧石器時代の景色は、これは皆さんご存知のように、眼前の瀬戸内海はいずこ?という風景である。そこには沼沢や草原や樹林や、今は見かけない動物の走り抜ける世界が、広がっていたようだ。

 かつて石器を使っていた頃の人達は、時代も場所も違っても、必需品を、工夫し製作しながら生活したことだろう。場合によったらまったく互いが関係なくとも、同じ人間であったという印のように、大変形の似た石器も作って使ったのであろう。彼らの環境は大きく違っていても・・・・


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