(122) 2011年3月11日と千足古墳

2011年までの、千足古墳頂部より造山古墳前方部を見た情景。現在は千足の石柱は取り除かれている。
 この古墳は、1912年に乱掘され、状況は報告されたが、その後は水没時が多く、1936年改めて京大考古学教室により調査、1938年、日本古文化研究所より、報告書出版。
 その後水没するが、時々水抜きされた。
上の写真は1968年3月18日中村昭夫氏の下で、水抜き撮影した千足古墳内部。下はその時とった拓本部分。文様下部には、剥脱など無い。 (よもやまばなし23参照)
1989年頃以後は水抜き無しという。
 現在ただ今、わが国の人で2011(平成23)年3月11日が、どのような日であったかを、忘れている人はまず無いだろう。だが1945(昭和20)年8月6日が、何の日であったか即答できる人は、どれほどいるだろうか。14万人の人間が一度に死亡している・・・まだ70年は過ぎてないのだが・・・

 前者が昨年起こった天災、東北の大震災と大津波の災害であり、同時に我々に豊かさを保障したとされる原子力利用が、かつての爆弾と同様な、目に見えぬ災害の恐怖を広げている人災まで加わった、大災害の日であること、これを忘れる事はないと信じている。

 後者の日時、これが地球上で最初に、同じ人類の上に、相手を殺傷するために原子力を使用した爆弾が、広島に投下された日だったと答える人が、この爆弾の二度までの被災地となったこの国の、何割の人々が現在思い出すだろうか。

 人は忘れるから生きていけるし、前へも進めると言われるかもしれないが、決して忘れられないこともある筈だ。この「3・11」は、これは長く私たちの記憶の伝承となるだろう。そうして「8・6」も人類として、決して忘れて欲しくない日なのだが・・・

 とはいえ被災者以外の個々の人が、昨年のその「3・11」に、何をしていたかと聞かれると、すでに記憶は曖昧になっている人もいるのでは・・・・

 ところでこの2011年3月11日と、千足古墳と何の関わりがあるのかとなると、多少の関係者や報道機関の人々以外、全く思い当たる人はいない筈だ。というのもこの古墳の石室内に設置されている、見事な装飾文様の彫刻された石の「ついたて(石障)」を、取り出して保存する以外方法が無いという、遺跡保存については、全く苦渋とも言う決定をした日だったのである。

 たまたま岡山市の文化財審議委員であった筆者も加わった国・県・市・その他文化財保存の有識者の集まった会であった。しかもその決定の時間は、後で考えれば、丁度大地震の起こったころであったのだ。(全くの余談ながら、
2009年9月29日岡大考古学研究室水抜き、10月5日文様剥脱の連絡。 上はその時の文様の状況、下半部分のめくれた剥脱が激しい。  以来、保護保存の協議や作業が続けられた。
 しかし現場保存不能で、ついに、2011,3,11に石障取り出し決定。多くの調査や協議を経て、同年12月10日下の写真のような状況で石障を取り出す。
当日東京から来岡していた人の中には、心ならずも岡山に2泊せざるを得なかった方もいたとか)

 東北の大災害とは、全く無関係なこととは言いながら、1500年近くも昔の人物の墓であり、しかもこの古墳は、当時はるばる九州から石材も運び、吉備地方の中で、九州そのものに築かれていた、全く特異な古墳で、この地吉備勢力を語るには、きわめて重要な古墳だったのである。その保存についての議論が重ねられていたのである。

 これは当考古館のことだが、この古墳については、これまたまるで作ったように、2008年3月11日付けで、この「よもやまばなし(23)」に「千足古墳石室写真・写真家中村昭夫氏を悼む」を挙げていた。千足古墳の概要や、装飾のある石障については、ここをクリックして頂ければ分かるだろう。

 5世紀の頃、わが国の河内地域では巨大な前方後円墳が数多く築造されており、その頃が倭の五王の時代というのが、教科書にも載る常識だろう。こうした中で、河内の巨大古墳の中に入れても、第4位の規模であるという吉備(岡山県)の造山古墳は何を意味しているのか・・・この造山古墳と一連の古墳である千足古墳が、全く九州的であるという点は、当時の政治的情勢は、近畿地方だけが圧倒的に優勢だったということではないだろう。

 ともかく誰からも今後注目にされることは無いだろう、この古墳の石障取り出し決定日が、昨年の3月11日だったことを、思い起こすことも含め、地元での報道はあったが、この石障が現在までにたどった経過を、しかもその保存への努力が、
(上)石室天井石をはずし、梱包された石障入れを吊り上げている。
(中)墳頂より、石障を水平のまま運びおろす装置。
(下)上の装置で、無事に石障入れは墳丘すそまで降りる。
現在なお進行形である点も含め、左や下に連ねた小コマ撮り写真だが、ここに残しておきたいと思ったからである。

 そこには1500年も前いらい、土中に埋められていた部分で、今回始めて姿を見せた、加工された砂岩の岩肌もあった。それはあたかもたった今、形を整えるために加工したかと思われるような生々しい岩肌であり、加工の痕跡であった。

 刃幅が6〜7cmばかりの手斧だろうか、その道具で、細かく石の面を叩いている痕跡は、見ていると1500年近くも昔の、石工人の息吹まで聞こえそうな気がしたのである。 また一方では、こうした工人によって刻まれたであろう見事な文様の方は、地上にあって表面の石がめくれ、剥脱している、この落差の大きさを、改めて思い知ったのである。

   この石障は、現在は岡山市の埋蔵文化財センター内の特別室で、ほぼ15ー20℃、湿度40−50%の状況で時間をかけた自然乾燥中、特に変化なく良い状況であると見られる。(この小話は、特に3月11日付けで掲載した。)

埋文センターに運ばれたことでの文様破損は全く見られない。下の模様で分かるように、現地でめくれた破損状況のままであった。
右は、岡山市埋蔵文化財センター内で、自然乾燥中の石障。 側面の赤丸は、石障をはずして始めて発見された、石室側と位置をあわすために付けられたと思われる標。石室側でも発見された。黒い側が土中に接した部分。
石障の下部で、土中にあった部分。岩肌は生々しく、加工痕は鮮やかである。


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