(129) 浦島太郎

 先回の宿題は、少々古い倉敷の町屋周辺へということだったが、先ずは先に話題とした薬舗林源十郎商店の江戸時代頃の状況から・・・・

 現在の同商店二階にある「林源十郎商店記念室」のパンフレットによると、この薬舗の開店は江戸時代の明暦3(1657)年から、倉敷で唯一の薬屋であったという。

 この明暦3年という年は四代将軍家綱の代で、一月には江戸で有名な振袖火事があり、江戸城は天守閣まで焼けている。10万人からの死者があったともいう。水戸光圀は『大日本史』の編集にとりかかった年、町奴の幡随院長兵衛が、旗本水野に殺された年・・・

 ところでパンフレットには、この薬舗の屋号は、最初「紀伊国屋」だったが、半世紀ばかり後の正徳5(1715)年に「大阪屋」となったとある。明治25(1892)年に11代林源十郎氏が当主になって、その名を商店名にしたという。

 林源十郎名は当主に代々引き継がれていたのであろう、先回示した、同家の絵図は明治17年の状況であったが、既に林源十郎と記名されている。

 この店舗の歴史は、林家に残る資料によるものだろうが、古くから店舗の位置が現位置だったのかどうかは分からない。倉敷で、この地域の絵図としては、家々の名前まで記載された古い資料は少なく、庄屋小野家の古文書で『新修倉敷市史』の史料編付図に収録されている宝永7(1710)年の古絵図くらいのものである。

左図中心部で主に汐川北岸の一帯が、水夫(かこ)屋敷とされていた。
●左図は宝永7(1710)年の古絵図の中、当時の道路での区切り、川、橋などと共に、神社・寺だけを記入した模式図を基本にしている。

●黒字は、宝永7年絵図のほぼその位置に、記入されていた主な家の屋号。その多くは、古禄と呼ばれた豪家である。

●赤字は文久3(1863)年頃、その地にあった主な家の屋号( )内は苗字。新禄と呼ばれた家が多い。
黒字を赤線で囲う家は、以前より続く旧家。

●茶色は1970年頃の注目される建物。他は民家と、日常生活に必要な小売店など

●ピンクは、現在の変化した名称。
 赤点は現在の土産物店。
 青点は喫茶店を含む飲食店

 この江戸時代の絵図は、以前考古館の建物の前身を見た時にも利用したが(「よもやまばなし」89)、宝永7(1710)年の図といえば、林家の薬舗が開店したという1657年より後、屋号を大阪屋に変えた、1715年よりは古い。この地図上で、現在の林商店に該当する場所を見ると、「泉屋 壽右衛門」とある。「紀伊国屋」でも「大阪屋」でもない。

 江戸時代の倉敷村では、江戸時代も始めの頃、現在考古館の周辺で倉敷川より北の一帯は「水夫(かこ)屋敷」と呼ばれており、特典のある地域であった。詳しいことは、先にも述べた「よもやまばなし」89をクリックしていただきたい。

 この地域で、海上を通じた様々な商取引や町屋経営により、豪家であった13家が、古くは村内を取り仕切っていたのである。これらの家々は古禄と呼ばれている。先に見た和泉(泉)屋もその1軒で、綿の問屋などもしているが、薬種屋ではない。林家の薬店が存在していても、現在位置ではなかったといえる。

 実は浜田屋小山家であった、隣の旅館と考古館のある位置も、以前に書いたように、1710年の地図には、貝屋と油屋と借家などであった。この油屋も古禄の家で、小山家の祖先ではない。ただ幕末の文久3(1863)年になると、林家の大阪屋も、小山家の浜田屋も、共に現在の位置に、その名が記載されている(『新修倉敷市史4近世(下)』参照)。

 江戸時代での倉敷の町屋では、18世紀後半頃から19世紀前半にかけて、新旧勢力の対立があり、新勢力は新禄と呼ばれ、古禄から新禄への勢力交替があったようだ。時代の変化期でもある。

 今残る倉敷の江戸時代家屋の多くは、この時期以後のものと考えられている。大阪屋も浜田屋も共に古禄の占めていた、かつては水夫屋敷と呼ばれた特別地区に、この頃から屋敷を構えるようになったのだろう。

 時代により町屋の主は変わりながらも、倉敷の町屋は残ってきた・・・今も多くの問題をかかえながらも、古い倉敷の町屋を残す努力がされている・・・と思っていたのだが・・

 ついこの春の連休が終わった頃、考古館を見学された方二人から、全く別々に同じようなことを言われた。
 一人は60才ばかりの女性、ご夫婦連れで入館された帰りに、そのご夫人が「倉敷は変わってしまいましたね」と言われた。少々驚いて理由をうかがうと、40年ばかり前に大原美術館に博物館実習で来ており、その時考古館でも、数日実習をしたとのこと。

 確かにその頃、大原美術館へは毎年かなりな人数が、まとまって博物館実習に訪れていた大学があった。その中で考古館での実習も引き受けていた。しかしその上品なご婦人から大学生はどうしてもイメージ出来ず、歳月の長さを思い知らされたことではあったが、同時に倉敷が変わってしまったと思われたことも、思い知らされることであった。

 まったく偶然ながら、数日の後に一人で考古館を見学された初老の男性が「浦島太郎の気分です。」といわれた。窺ってみると、この方は半世紀近く前に倉敷に住まわれていたとのこと。倉敷川がどぶ川であったことなどご存知だった。

 「倉敷はこの辺りに、たしかにお金をかけているようだが・・・・・」後は何も言われなかった。ご自分の中の古い倉敷とは、全く違う倉敷だったのだろう。

 確かに私たちも半世紀以上、考古館周辺で昼間の生活をしてきた。以前には、林薬局へ薬を買いに行っていたように、近くの八百屋では、そこで作られる惣菜や簡単な弁当が、便利な昼食ともなっていた。もっと古くは、八百屋は周辺に三軒もあり、夏には昼食に玉豆腐を買いに行った・・・すぐ近くには銭湯があり・・・鶏肉だけ売っていた店もあった・・・金物屋もあり、床屋もあり、呉服屋も、菓子屋も・・

 考えてみれば、半世紀も前には、食堂と名の付くところは少々離れていて、僅かしかない・・・安いうどんの出前もしてくれた・・・そのころ土産店があっただろうか・・・

 今では周辺は、名前も覚えられないばかりの、新しい土産物商店や食事処ばかり・・・日常生活の匂いが消えた観光門前町・・・その只中で生きていたわれわれが、実は浦島太郎になってしまっていると言うのか・・・

 江戸時代の古禄と新禄の交替も、50年ばかりかかっている。現代の50年の変化、これも歴史の流れではあるだろうが、現代の「新禄」は後世に何を残したか、評価するのは現代でなく100年以上は後世のことだろう・・・・なんと評価される事か・・・

 とはいえ、ともかく日本が・地球上が無事であって欲しいが・・・



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