(13) 倉の倉今昔

中央の小さい倉が倉庫

 「倉の倉」などと少し気取った言い方をしたが、つまり倉敷考古館の収蔵庫のことである。館の本体は江戸時代の倉であって、博物館収蔵庫の機能は倉であるから、倉敷考古館の収蔵庫は「倉の倉」ということだろう。
 この収蔵庫の方の倉が、ただいま屋根替え中。(2007年)11/5〜12/22の間で、左の写真(1)の手前の小さい建物が屋根替え直前の姿である。いわゆる2間×3.5間(約360×630m)の小さい倉形の倉庫である。この後も瓦だけは新しくなっても、姿は変わってない筈。というより、外観を古いまま守ろうというのが、この伝統的建物群地域保存のための原則である
 しかしこの屋根替中の倉は、1970年に建て替えられたものである。以前は上の挿絵で示した版本に描かれた商家で、デホルメは激しいが一番右端の建物に当たる。この建物の左の左に画かれている倉は、現在の倉敷考古館である。両者の間の建物は、現在は建て替わって考古館の一部となっている。

 この版本は明治17(1884)年出版の『商家繁昌中備の魁』と名付けられたもので、現代風に言えば、当時の商家宣伝情報誌のようなものであろう。この商家は江戸時代以来浜田屋とも呼ばれ、版本では生魚問屋とあるが、江戸時代には手広く商売をしていた、倉敷では中心的な商家の一軒だったのである。現在では正面部分の建物を含む大部分は旅館となっているが、古くからある考古館の倉一棟だけは、今も小山家の所有であり、考古館は開館以来小山家からの借地・借家である。

 左端の建物とその周辺は、考古館開館以来倉庫代わりとして使用していたが、母屋が旅館に変わった時、駐車場が必要ということで、この倉の収蔵庫は倒され、代わりに現在の位置に建て替えられたのが今の収蔵庫である。

 小山家による生魚問屋が何時まで続いていたかは定かでないが、魚市場は、このあたりで続いていたと伝えられている。江戸時代以来残っていた隅の倉には、内部の一部に二重の分厚い戸が設けられ、冷蔵庫となっていたのである。考古館ではそのままの状況で中に様々な遺物を収めていた。
 この一帯では時に蕨が生えて、一握りではあっても持ち帰った人もいるし、大きな蛇の青大将が表の倉にまで出張して、館員の悲鳴の原因になったり、たいへん自然が残っていた。1970年、古瓦利用で急遽建て替えた倉は、40年足らずで、屋根が漏り屋根地が腐り、屋根替えをしなければならなくなったのである。江戸時代の壊された倉は、壁の厚さは30cmもある堅固なものであった。
 倉の倉にも歴史がある。



1970(昭和45)年5月1日 金 快晴
 昨日裏の新倉庫ほぼ完成。今日周辺の石を取り除く作業が終了。引越しができるようになる。
(同年) 5月23日 土 曇
 午後新倉庫へ、最後になっていた陶棺の運び込み。倉(旧倉庫)の主の蛇が二階で死んでミイラになっていた。倉と命を共にしたのか


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