(134) 「平家の高鍋」と思い込み

倉敷市酒津の高梁川河川敷から採集の、三足鍋の足。 ここには弥生〜室町頃までの遺跡が広がる。
岡山市鹿田にある、岡山大学医学部構内出土の、三足鍋のイメージ(報告書参照) この地は、旭川下流右岸の一角に存在した藤原氏、氏の長者に伝承された鹿田庄とされる
 今年(2012年)NHKの大河ドラマで、平清盛を取り上げているので、この話題を思い付いたというわけでもないが、一度は「平家の高鍋」も取り上げても良いか、と思っていたので、このドラマが多少はきっかけになったかもしれない。

 ともかく多くの人に、「平家の高鍋ということを、知ってますか」といって、聞いてみたいのだが・・・・・・私たちの周辺で、多少とも考古学に関心のあるような2〜3の人たちは、知らなかった。ただ考古館に勤める私ども二人は、半世紀以上も昔から、この言葉だけは知っていたのである。ただ誰から聞いたのかは、二人ともまったく記憶が無く、別々に聞いた物だったようだ。しかも何を意味しているかなど、互いにわざわざ話し合う必要も無く過ごしてきたのだった。

 私個人は、上の写真に示した妙な遺物、しかも写真では両者とも先端が欠けており、完全な物は20cmばかりの先がやや細く尖った棒状の焼き物・・・これに関係あるものと思い込んでいた。一般的な各時代の遺物を含む遺跡からは、時に発見されるものであった。

 近郷の遺跡から出土するこの種のものを、半世紀も昔には、仲間内の符丁とでも言うか「天狗の鼻」と呼び、これが出土する遺跡は中世初め頃かという、理解はみんなにあった。もちろんこの棒状品が、このあたりでは右上のスケッチ図に示した、浅いやや大ぶりな土師質の鍋底に3本付いて、三足器となることも、承知の上であった。鍋には煤の付着や、火を強く受けていた痕も顕著で、日常の火にかける用具だったことを示している。

 「平家は戦場にまで、高鍋持参で料理していたので負けたのだ。」これが平家の高鍋なのだ・・・と誰からか聞いたように思い込んでいたのが、私の理解であった。そこで時代的にも丁度合致しそうな先の三足器の出現が、このような話を生んだのか、とこれもかってに思っていたことだった。

 ところが考古館のいま一人は、「平家は鍋を火にかけるとき、高い位置にかけたので、早く煮え合理的だった」これが平家の高鍋だと思ってきたようである。別に三足鍋との関係など思っていない。

 遠い昔に聞きかじっていた言葉が、日々顔を合わせ、同じ仕事をしている者同士で、このようにまで理解が違っていたとは・・・・いったい「平家の高鍋」などということは何処から出てきた言葉なのか、恥ずかしながら、今頃気が付くようなことであった。

 そこでちょっと調べてみると、岩手県遠野出身の佐々木喜善(1886〜1933)著『聴耳草紙』の中にある話題に「平家の高鍋」と言うのがある。これは「源氏は鍋を低くして炊き、平氏は高くして炊いたので早く炊けたので戦いに勝った」と言うような話のようである。ようであるとは全く無責任なことで、申し訳ないが、原典に当たりえなかったので、ご容赦を・・・・筑摩叢書1964年に『聴耳草紙』がある。

 この佐々木喜善は、民俗研究者の中では著名な人物、この人の民話収集を基にして、有名な柳田國男の『遠野物語』が書かれたと言う。彼は祖父が語り部であり、400篇以上の民話収集をおこなっている。地元では村長も勤め、宮沢賢治などとも交友があったと言う。

 しかし考古学の世界で、一体誰が彼の民話の中の「平家の高鍋」を話題にしたのか、私どもより1〜2世代前の先生方の誰かだったのだろう。どのような鍋をイメージして話題にしたのか。どこかで聞いたはずの私たち二人が、全く部分だけの記憶で、私などは反対の結論をおぼえていたのである。

 あいまいな伝承の恐ろしさ、瀬戸内の私などは、瀬戸内での源平合戦・平家の滅亡が頭にあることから、平家を負けたことにしてしまったのであろう。伝承だけではない、同じことでも思うことの違いと、思い込みの怖さ、妙な鍋から思い知らされた。

 さて三足鍋が、時代の変わり目に丁度出現したこと、こちらの方こそ、わたしたちの考える仕事だろう。


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