(150) 古ポスター〔その2〕・・兄弟(姉妹?)の銅鐸

神戸市立考古館開館ポスター
          1969年5月
 先回に続いて、考古館に保管されていた古ポスターの束の中の1枚、左に挙げたものとの関連話題。このポスターには制作年代は記されて無かったが、「神戸市立考古館 晴れのオープン」とあることで、1969年という事が分かる。半世紀近く昔のこと。

 ただ神戸市内でも50才前後より若い方で、博物館のことをよく知る人にとっては、かえって少々・・??・・・「神戸市に市立の考古館が有ったかな?」「・・須磨離宮公園内、とあるがそのような所に考古館が有ったかな?」ということだろう。60才を越すような方では「おっ、懐かしい」と思われる人がどれほど居られるか・・・

 神戸市灘区桜ヶ丘と呼ばれる地点(通称では「神岡」)から、1964年の年末に、採土中偶然に、14個の銅鐸と7本の銅戈が出土したことは、当時は考古学関係者に限らず、マスコミでも話題となったことであった。

 現在これらの銅鐸や銅戈は、全て国宝に指定されているが、中でもポスターにも使われているような、優れた絵画を持つ鐸は有名である。今ではこれらが、神戸市立博物館で常時展示されていることを、知る人は多いであろう。

 近年では出雲において、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡のような、大量の銅剣や銅鐸などの発見があったことから、この桜ヶ丘遺跡も多少影が薄いかもしれないが、戦後の考古資料大発見では屈指の遺跡なのである。

 この貴重な遺物の収蔵・展示のために急遽、須磨離宮公園内に建築されたのが、このポスターの「神戸市立考古館」だったのである。この考古館で、他の資料と共に銅鐸や銅戈が展示されていたのは、1982(昭和57)年までであった。その後、現在の神戸市立博物館が設立され、そこに資料も引っ越したということである。(建物だけは今も公園内に残ると聞く。)

 前置きが長くなった。これが一体倉敷考古館と何の関係?・・・と言うことだが、実はこの桜ヶ丘発見銅鐸の中の一つが、今も倉敷考古館で常時展示する、大原家蔵の滋賀県新庄出土の銅鐸と兄弟鐸だったのである。

 なぜ姉妹でなく兄弟と言うかは知らないが、特に意味はないことだろう、そのように言い習わされている。周知のように、この兄弟鐸と言うのは同じ鋳型で作られた銅鐸という意味だけで、遺物に性別を与えたことではない。

 銅鐸も新古によって、鋳型の作り方がちがってくるが、ここで問題の銅鐸は、石で鋳型が作られ、その鋳型が幾度も使用されたということである。桜ヶ丘の銅鐸が発見されたことで、兄弟は5人(個)になった。今までに知られている銅鐸の中では、最も多くの兄弟が判明している鐸なのである。

(左)考古館に展示している滋賀県新庄出土の銅鐸
                                 高42.6cm
  (上)神戸市桜ヶ丘出土、新庄鐸と同笵鐸の文様拓本
  (下)新庄鐸の桜ヶ丘鐸と同一部分の文様拓本
   両者の鐸文様拓での違いで、顕著なもには、鋳型の型持孔の位置。
 ここに考古館展示中の新庄の流水文鐸全形と、この面の流水文の間に鋳出されている人物や動物などの文様帯の拓本、それに桜ヶ丘の兄弟鐸の同じ部分の拓本(報告書『桜ヶ丘銅鐸銅戈』1972年による)とを示した。これを見て、同じ鋳型で作るなら、双子とか三つ子ではないのかと思う人も、なるほど兄弟だと納得いくだろう。かなり違った部分が目に付く。

 銅鐸は一個ずつ作られることで、同じ鋳型でもその都度変化が出てくる。鋳型も傷んでくる、そこから、兄弟の生まれた順序も分かってくるということなのである。このとき新発見の桜ヶ丘の鐸が、報告書によると長男だとされるが、細かく見るとまだ問題はあるようだ。

 出土地が明らかなものには、桜ヶ丘鐸、新庄の鐸以外に、鳥取県泊の鐸として知られるものがある。かつての東伯郡泊村大字小浜(現在の湯梨浜町)で1933年に地元で開墾中に発見され、現在は東京国立博物館蔵品となっている鐸である。5人兄弟の内他の2個の兄弟鐸は、神戸市内にある白鹿記念酒造博物館蔵品だが、残念ながら出土地は分かっていない

 とはいえ、実は大原家蔵である滋賀県新庄出土の鐸も、かつては身元不明者だったのである。この鐸も銅鐸研究の最初の集大成、梅原末治著述の『銅鐸の研究』(1927年出版)に掲載された時には、出土地は分かっていなかったのだ。東京の大坪正義氏蔵鐸だった。

 ところが同じ梅原先生によって、6年後の1933年に出土地が認定されたのだ。同年発行の『考古学雑誌 23―4』に書かれた先生の論文によると、他の美術雑誌に、神戸市灘の旧家が所蔵した資料の中に拓本があり、それに江戸時代の寛政11(1799)年2月に江州野州郡新庄村で4個の宝鐸が出土、そのうちの1個が完全で、その鐸であると記されていた、ということを知らされた。それが大坪氏蔵の鐸と同一物であることを確認した。ということである。

 その後には第二次世界大戦があり、わが国内では、多くの都市は戦災で灰燼に帰した。梅原先生自身も結核で重態となったが、丁度戦後、アメリカから特別に当時の結核の特効薬とされた、ストレプトマイシンが送られたことで、一命を取り止めたとの話も耳にした。

 敗戦から5年後の1950年、倉敷考古館は開館の際、梅原末治先生の指導を受けたのだが、その時大原家に銅鐸が所蔵されている話で、その鐸はと言うことで取り出された鐸を見て、先生「あっ・・ここにあったのか!!」・・・これが実は先生によって身元が確認された新庄の鐸だったのである。

 この鐸が『銅鐸の研究』以後どのような遍歴をたどって、大原家へ入ったのかは、今では誰にも分からない。それから60年以上、この鐸は考古館のケースの中におさまっている。

 この銅鐸が、5人兄弟と共に同じところで誕生したのかどうか? 使用されたところへどのようにして移動したのか? どれほど地上で活躍したのか? 地中に他の3個の鐸と一緒に埋められ、放置されたのはなぜ?・・・様々な歴史があったことだろう。

 その後の長い土中での滞在は、銅鐸にとっては案外一睡の時だったかもしれない・・・19世紀以後、時に激しく揺り起こされることはあっても、ここ60年以上考古館のケースの中にあり、国の重要文化財に指定されてはいる。しかし多くの人は前を素通りしていく。今はまた昼寝でもしているのでは・・・


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