(153) 弥生人の語り(3)・・・土器に描かれた絵は?

岡山市津島運動公園内遺跡出土
弥生中期高坏脚部(残長14cm)に描かれた雄鹿と脚端にめぐる鋸歯文と斜格子文

 今回話題の物は、考古館で常に展示している小土器片に、細線で描かれたもの。写真だけではわかり辛いので、拓本に推定図を加えた物と共に示した。弥生時代中期の高坏脚部に、少なくとも2頭の鹿が描かれていた部分の破片である。

 これは先の149話で取り上げた、岡山市内の津島運動公園内遺跡の出土品である。この遺跡に関しての調査は、歴史を持つともいえるほど問題が多かったが、詳細は149話をクリックしていただきたい。その時の最初の調査時に、私達が発掘した地点からの出土品であった。

 急遽調査したその地点は、たまたまかつての河道内に当っており、主に弥生中期の土器片が流されたような状況で、点々と包含されていた。半世紀も昔の緊急調査である。近年のように時間をかけ、排水を整備しての調査は出来ないのが実情だった。遺物は半ば水中から拾い上げざるを得ない状況だったのである。

 この水中から取り上げたことが幸いし、拾い上げた時には、綺麗に洗われていた高坏の脚部の破片に、細い線で描かれていた鹿の姿が目に入った。その後現在にいたるまで、各地で続く膨大な遺跡調査の中でも、土器に描かれた絵画の出土は、極めて少ないものである。津島遺跡でのその後の調査も含め、この土器片は、珍しい存在である。

 かつての調査時にも、重要さを思いこの土器片に接着する破片は無いものかと、水中の調査に目を凝らしたが、残念ながら現在接着している、他の小片のただ一片のみの発見だった。この高坏が、どのような時にどのように用いられていたものだったのか、破片となって流路の中に他の土器片と混在しているに過ぎない状況だったので、何も分からない。

 弥生時代中期の特徴を明瞭に備えた、この高坏脚部に描かれていた絵は、銅鐸に鋳出された文様にも極めて似ていた。一番下段には連続した鋸歯文、その上に廻るのは斜格子文の帯、これらは多くの銅鐸に、基本的に付く文様である。並んだ鹿を描くのも、銅鐸絵画としては多いものの一つ。

 最近では銅鐸やその断片、製作跡なども、弥生遺跡の中から発掘される例が多くなったので、銅鐸が作られたり、使われたりした時期が、詳しく分かるようになった。しかし半世紀以上も前には、銅鐸は生活遺跡から離れた、山中などから偶然に発見されるのが普通だったことから、津島遺跡で発見されたこの高坏土器片などは、銅鐸の時期研究にも貢献する重要な資料だったのである。

 この土器に絵を描いた人物は、少なくとも絵画付きの銅鐸を見ていたか、或いは銅鐸生産者とか、保管者などとも無縁の人物ではなかったのでは?・・・と思うのも決して間違いではないであろう・・・・が、しかし当時の土器に描かれた絵が、まるで銅鐸写しに過ぎないというのではない。むしろこうした例は少ないようで、土器画の画家には、土器に描く主張があったのではと思わすものである。

 津島遺跡は、先に話題にしたようにその後もかなり広範に調査された。またこの遺跡に近いところでも、開発の度には、各地で弥生遺跡が発見されているが、土器に描かれた絵は、片手で数えられそうな程度の出土であり、しかもこの高坏片の鹿の絵ほど、銅鐸絵画とのかかわりを示す物ではない。

 ただこの土器は弥生中期のもの、弥生時代も後期になると土器に描かれる絵画も多くなり、その内容もかなり変わってくるようだ。そこで同じ弥生中期で、津島遺跡のある岡山近辺で、どのような絵があるだろうか。津島近辺と言いながらも、県を渡って見なければならない程度の資料しかない。

広島県矢原遺跡出土 弥生中期大形台脚付注口土器(高さ48,5cm)
右の拓本は台脚端部に描かれた1頭の雄鹿と一連の文様
(潮見浩『考古学雑誌』60-2 1984年より)

 左に示した拓本中の鹿、津島遺跡の2頭並んで駆けているような鹿は、銅鐸絵画にも多いスタイルだが、それと比べ、奇妙な円いものの前で思案しているようでもある。 これは広島県東北部で中国山中、かつては岡山と共に吉備国の一部であった備後の地、三次市(三和町)矢原遺跡出土の、台脚付きの注口土器に描かれていたものである。左に図を示したように、美しく飾られた高さ50cm近くある、大形の注口土器であって、鹿は、脚端の広がった部分にぐるりと描かれた奇妙な絵の一部である(拓本参照)。

 銅鐸の絵では、鹿を弓矢で狩る絵が多いためか、これは鹿を罠で捕る絵だろうと、解釈する人が多いようだ。しかしその続きの絵は何であろうか。何かもっとほかの事を語っているように思えてならない。

岡山市新庄尾上遺跡出土 弥生中期壷胴部片に描かれた鳥人と家の模式図  (『新庄尾上遺跡』岡山市教育委員 2009年より作成)

 いま一つ右の絵は、津島遺跡と同じ岡山市北区にある新庄尾上遺跡の出土品。とは言え、これは平成の大合併によるもので、遺跡地はかつての御津郡御津町、市街地よりは遥か北方の山中である。津島遺跡の東を流れる旭川を15kmばかりも遡った地で、旭川に東から合流している新庄川を、なお4kmも遡った地にあるのが、新庄尾上遺跡なのである。

 地域の合併は、次々と続けられてきたが、特に近年の大合併は、従来の遺跡地のイメージを混乱させる。他県の著名遺跡が、近年の合併地名で、一体何処に入っているのか、しばしばあたふたさされている。これは遺跡地だけのことではない。

 かなり以前の話になるが、かつては備中の代表的巨大古墳として知られた造山古墳の所在地が、岡山市に合併された時、たまたま私どもが本を製作しており、その原稿に、合併したばかりだった造山古墳を、岡山市とだけ記述した。その時東京の編集者が、遠慮しながらも、岡山は備前の中心地、備中の造山古墳が岡山市なのですか?とわざわざ聞いてきたことなどある。・・・遺跡や歴史に詳しい人ほど、こうした疑問にぶつかるのでは?

 少々脱線・・・新庄尾上遺跡の土器片は、弥生時代中期も終わり近い頃の壷の胴部に、描かれているが、実在とは思われない姿のもの。頭は鳥形で胴体は人。4本指の両手を左右に広げている。羽根の表現ではないが、両手を広げたいわゆる鳥人と呼んでいるスタイル。

 鳥人の周辺にあるものは、ごく部分なので何か分からないが、同じパターンのものが描かれたので無く、何か異なるものが描かれている。その他には、四注屋根を思わす高床の家の半欠が残っていた。もちろん鳥人と同一固体の断片である。全てが一続きのものだっただろうが、絵が断片で何の意味を持つかはよく分からない。ただ銅鐸の絵画とは異なっているとおもう。

 弥生人が得意顔で「そうなんです・・・あの土器に入っている物のことをみんなに告げているのです・・・ええ、ご祖先様や天地のお使い様のお告げなんです・・・・意味の分からないのは、そちらの勝手・・・」・・・???次回に続く


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