(154) 弥生人の語り(4)・・・絵はキャンバスに注目!!

 ここ数回、弥生人が描いた絵や記号を取り上げた。描いたキャンバスが、青銅器や木器や土器の違い別に・・・(ここでいう「キャンバス」は本来の意味とは異なるが、描く相手の素材とか場所、と言うぐらいのことで、ご容赦を)

 すでに古くから、多くの学者が弥生時代の絵画を取り上げ様々に論じられてきた。その場合の多くは、絵画や記号自体、その描き方もふくめ、形態や内容、描かれる頻度などが問題の対象だったとおもう。

 銅鐸に描かれたものと、土器に描かれたものの間に、差異は認められていても、描かれた土器自体が何であるかは、あまり問題とされていない。銅鐸は男性が作るもの、土器の多くは女性が作るもの、それだけに、土器の絵は生活的なものが多いともいわれている。

 しかし描いた土器が、壷か高坏か器台かなどは、あまり問題になっていない。大体に大形壷の、肩部といえる部分に描かれたものが多いためでもあろう。とはいえなぜたまたまその大形壷が、数ある壷の中から、絵のキャンバスに選ばれたのだろう。

 全くの偶然ではないと思う。恐らくその中に入れるものか、使われ方に特性があったのでは・・・先回のラストで、弥生人が、「中に入っている物のお告げ」と言ったのは、本音では?・・・

 先回の広島県三次市矢原の飾られた台脚付注口土器(153話参照・ここをクリック)、これには良い匂いを放つ、濃い酒が満たされていたのでは?・・・この種の土器は広島から岡山にかけての山中で、弥生の墳墓に関係ある地から出土している。酒は再生を願う、薬酒だったかも・・・

(1)鳥取県米子市稲吉角田遺跡絵画土器 『考古学雑誌』67ー1 1981
(右上)大山町妻木晩田遺跡出土

 脚部に描かれた絵は、地神を象徴する鹿によって見出された聖泉、続いて山中で新たな酵母菌の発見、その酵母と泉の水で醸された酒、その中には山中の薬草も混ざる。絵はこの酒を造った人物の勲が刻まれ、上質の酒や薬酒製造の知識は、ムラの力となった。描かれた絵は、注口から酒が注がれるたびに、伝え継がれるムラの秘伝絵だったのでは。

 同様に先回の絵の一つ。壷の肩部に、鳥頭の不思議な人物が描かれた岡山市新庄尾上の絵である。鳥人の姿で表現される者は、中国からの新技術を伝えた人物の象徴。羽の生えた羽人(鳥人)は、中国の神仙世界の仙人。医神もこのスタイルである。

(2)奈良県田原本町唐古・鍵遺跡出土
   (田原本町教育委員会)

 『記紀』に登場し、歴史上後々までも医神として伝えられる、スクナヒコナ神は、薬の舟に乗って、羽の生えたスタイルで、海外より出雲に来た。出雲では当時、日本海経由で新しい知識が入り、その力が、近隣に普及していたと思われる情勢である。大量の、銅剣や銅鐸を備蓄していた事でも分かるだろう。

 尾上に現れた鳥人が、医神であっても、無くとも、何か新しい知識をもたらし、高床の大きな家も作られた。そこで大切に保存すべき物が入れられた大壷に、この地での鳥人の働きが刻まれていたのだろう。

 先回最初に示した、考古館で展示する高坏の脚部模様は、銅鐸に付く文様とそっくりであった。銅鐸模様が、豊作と村の平安を願う文様であるものなら、この高坏に盛られた物は、その願いの成果と言えよう。

(3)奈良県田原本町清水風遺跡出土
    (田原本町教育委員会)

 『魏志倭人伝』の中では、倭人は「豆」で手食するとされる。「豆」が高坏である事は、周知の事だろうが、この高坏には、銅鐸の祈りでもたらされた、豊作と平安を感謝して、銅鐸に供える飯が山盛りに盛られたのかもしれない。

 今回模式図で左に示した、三例の絵は、しばしば引用される著名な物。すべて弥生中期の大形壷の胴上部に描かれたもの。
(1)は鳥取県の西端近く、大山裾野の一角の、二つの遺跡から出土。ここは出雲文化圏、この絵には共に鳥人らしい人物がいるが、稲吉角田遺跡の物は舟に乗っており,周りには天に届くような高床の家、銅鐸まで木にぶら下げているようである。この壷には、新たに海外からもたらされた物、たとえば生薬などが入れられ、銅鐸などと共に天界の社に供えられる表現では。

(2)は奈良県の中央部の遺跡ともいえる、唐古・鍵遺跡の出土品。鳥人が多くの鹿を制御している様である。鳥人は女性シンボルをつけている。鹿を土地神とすると、外来の女性神を中心に地元神たちが何かあわただしそうである。この壷には女神が醸した銘酒でも入っていたのか。高天原の談合にも思えるよう。ここで何が定まったのか?

(3)は先の唐古・鍵遺跡に近接した清水風遺跡の大壷。ここでは大鹿は矢で射られ、魚がいるからには、川か池もあるのだろう。鳥人のように頭に毛を生やしながらも、手に盾と戈を持った戦闘態勢の者二人、柵もあり、立派な高床の家も建つ。

 水利もあり良好な水田となる地を、新しい戈という武器を持つ者が征服したのか。大鹿は広大な土地の代表?矢で射られた鹿を、豊作を願う農耕儀礼とだけ考えてよいものか?・・・広大な原野には多くの鹿がいる。鹿を狩り、追うことは、原野を手に入れ水田化する事に外ならない。この土器の絵、その新しい水田の収穫は、他の水田よりはるかに出来が良かったので、籾種としたことの標?・・新種の籾種入れの壷だったのでは。

 弥生時代獣類を食料としているのは、各地とも鹿より猪のほうが、かなり多いとされている。遺跡出土獣骨からの結論である。しかし弥生の絵画では、銅鐸・土器に限らず、鹿の絵が圧倒的に多いのは、鹿を追って耕地を広げていったことの表現化だろう。

 少々意地悪の見方をすれば、『播磨国風土記』に記された、鹿の血を籾種に混ぜると、稲の出来が良いとするのも、あまりに鹿を追うたことの後ろめたさか・・・

 『日本書紀』の世界の中でも、人と自然界の代表者=神との争いは続く。各地を征服した英雄ヤマトタケルも、山中で神であった白鹿を殺した事で、道に迷ってしまう。続いて近江の伊吹山で、山神の大蛇を馬鹿にした事で、病となり、ついには命を落とす。『古事記』でのこの話は、伊吹山の神は白猪で、これを馬鹿にして命を落すとある。

 ともあれ弥生時代の絵の意味は、その書かれているキャンバスで、いろいろと異なっているようだ。銅鐸絵は祈りの希望、土器絵は内容物の由来や関係者の歴史、木に記す場合も物によっていろいろだろうが、基本は記憶の補助記録なのでは・・・

 「弥生さん如何ですか?」・・・・「zzzzz・・・」ただいま居眠り中


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