(156) 横穴と8月15日

 以前「8月15日」とだけのタイトルが、この「よもやまばなし」に登場したのは、(86)話で、2010年8月15日付け。そこには、この日やその直前頃の世情、個人的感懐、考古館の長い歳月の中での、8月15日での出来事などが、なんと沢山、何やかやと網羅されていたことか・・・

 この日が昭和一桁代生まれの者にとっては、あまりにも大きな意味を持った日であった事、しかも古い記憶の風化が激しい世間の中で、何か駆り立てられる思いもあっての、記述だった。しかもこの年2010年は、ちょうど考古館開館60周年にも当たる年だったので、その宣伝などもあってのことだった。

 ・・・ところで今回のタイトルには、「横穴」付き・・・「何と解釈されますか?・・上の写真がそのヒントですが」・・・

 「読者を侮るものではない。考古学に多少とも興味を持つ者には、横穴など説明は要らない。写真は、埼玉県の吉見百穴じゃないか。江戸時代以来知られた、有名な古墳群。横穴は古墳時代後期6世紀から7世紀にかけての古墳の一形式、この頃の古墳は、横に出入り口を開いていて、口は開閉でき、幾代かの祖先が次々に埋葬されている。」

 「8月15日といえば、旧暦7月15日前後に当る。この頃は古代以来の盂蘭盆会。現代でも各地で祖先の供養をしているだろう・・・・なに?・・盆踊りしかしてない・・・盆踊りも祖先供養、祖先がやってきて共に喜ぶ踊りだぞ・・・スーパーマーケットにだってお盆の供物をたくさん売っているだろう。」

 「盆には地獄の釜の蓋まで開くのだ・・・・・地獄の釜?地獄名物でも有るのか?・・・付き合いきれん!!・・・ともかく盆には全ての御祖先様が帰ってくるのだ」

 「それで・・・盆には横穴の口まで開く?古墳時代にも盆があったのか?・・・」

 ・・・「申し訳ありません、今回の8月15日は盆のつもりではなかったのです。太平洋戦争終戦日のつもりで・・・写真に示した吉見百穴の中には、太平洋戦争当時の横穴もあるのです・・・」

 古墳時代の横穴は各地にある。しかし最初の写真に示した吉見百穴一帯には、300基近い横穴が群在しており、山腹斜面に、まるで蜂の巣を思わすように、横穴の入り口が並んだ不思議な光景(左端写真)は、200年くらい以前から有名だったようだ。これが何であるのか、江戸時代以来文人たちの、興味をそそっていた様だ。

 明治時代になり科学的な学問が普及する中でも、1887(明治20)年に、この横穴群を大掛かりに調査した東京大学の坪井正五郎博士は、わが国の先住民族は、背の低い「蕗の下の人=コロボックル」人だったという説を持っていたことから、横穴の中の、狭いながらも作り付けのベッドまである(上の左より3番目写真参照。これは棺床である)部屋を思わす空間が、先住民の住居跡と考え、後に墓に利用されたとしたのである。

 この吉見百穴には、明治24(1891)年には俳人正岡子規も訪れており、「神の代は かくやありけん 冬篭り」の句を詠んでいる。2004年には、上右から3番目写真のような、子規の句碑が、彼の文字を写して、横穴近くに建てられていた。子規も「冬篭り」と詠むからには、コロボックル説の影響で、ここに住まう古代人を思い描いていたのであろう。

 その後考古学研究もすすむなかで、この種のものが、後期古墳の一つの形態であることが明らかとなり、大正12(1923)年に国の史跡として指定された。近年では、各地にこの種の横穴が発見されることで、注目度も低くなったようだが、やはりその景観は、インパクトの有るものと言えよう。

 ところで「8月15日」の方は、言うまでもなく1945年の敗戦宣言の日。太平洋戦争も末期には、日本中各地がアメリカ軍の空襲に晒されてきた。当時最重要と考えられた航空機製作工場疎開のため、地下工場が突貫工事で作られたのである。

 当時の中島飛行機(現在の富士重工)の、大宮工場エンジン製作部門全移転地として、容易に地下施設が造りよいところ、古墳時代人にとって、地下の墓が造りよかったこの吉見百穴の地も選ばれたのだろう。

 最初の写真をよく見て頂くと、横穴群の真ん中に、他の横穴よりやや大きな入り口が見えるだろう。これが20世紀の横穴、地下工場の入り口であった。一見しただけでは古墳時代の横穴入り口と区別がつかない。カモフラージュの意味があったのかどうかは、知らないが、この工事によって、横穴は数十基壊されたと言う(上の右2点の写真参照。右より2枚目写真の右上方には、壊されて部屋の部分のみ残る横穴。)。

 古墳時代の横穴とは違い、20世紀の横穴は、入り口こそ小さく数も少ないが、奥は深く、縦横にトンネルが通じその長さは500mに及ぶらしい。危険なため、公開されているは10分の1にも足りないが、トンネルは幅4m、高さ2,2m馬蹄形で、左右に凹所などが造られる(右端写真参照)。

 古墳時代の百穴にしても、見学には危険なものばかりで、立ち入り禁止が多い。20世紀の地下工場も、古墳時代の遺跡と全く同じ歴史の証言者である。年を重ねるほどに重要度は増すだろう。吉見百穴遺跡では、両者は同等に扱われて、管理されている。

 戦時体制のなかで、古くから著名な横穴、国史跡の中に、かなりな数の横穴を壊して作られた地下工場が、無言で戦争を証言し、この労働に駆り出された多数の人々の声をも伝えるだろう。吉見百穴遺跡では、古代だけでなく、8月15日の意味も切り離せないのである。

岡山県倉敷市水島にある亀島と地下工場跡 (左端)連島から南を見る。靄がかかっているが亀島と工場地帯が沖に続く、現在の状況。 (右三点)閉鎖されている地下工場入り口と、内部の状況(写真は2007年撮影)


 この話題、はるかに離れた関東地方のことだけではない。直ぐこの倉敷の膝元、水島の亀島山にこれと全く同じような戦時中の地下工場跡が残ることを、数多く倉敷を訪れる人の中で、幾人知っているだろうか。倉敷市民や近郷の人でさえ如何であろう。

 ここに挙げた写真は、かつてここを訪れた方からの提供である。この地下工場跡は、普通に訪れても入れる状況ではない。見学できる施設が無いかぎり、入り口が放置されていたのでは、危険なためである


 しかし倉敷の今ひとつの顔とも言える、水島の工場地帯の歴史の中で、重要な意味を示す軍用機工場の歴史遺産が、忘却されていくようでは、倉敷市は文化都市とは言えなくなる・・・・・(今も文化都市なのか?)・・・

 ともかく、よく分からないのは、敗戦の日がなぜお盆の真っ只中の日だったのか?・・・全くの偶然だったのか?・・・時が経つほどこの両者が一つになる・・・死者が帰ることは、過去を正しく検証する事なのだから・・・


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