(165) 甲(きのえ)午(うま)の年・・考古館の中の馬・・

朝鮮半島出土の馬形帯鉤 考古館蔵

 年頭に「今年は何の年だった?」というと、「ウマだね」との返事が返るはずなのだが、現在では実際に、幾パーセントの人が答えてくれるものか・・・「何の年とは何の事?」・・・今の若い人が、どれだけ干支(えと)を知っているものか、それが知りたい気がする。

 今年の干支は「甲午」今年生まれの人は「馬」年ということになるが、そのようなことは、全く眼中に無く、忘れ去っている人もきっと多いことだろう。ところが、パソコンで「ひのえうま」と打てば、「丙午」がすぐ現れる。「きのえうま」の「甲午」はでてこない。「木の絵馬」がいいところで、これでは神社に奉納の絵馬である。

 これは現在もまだ同じ「午」年でも、女性の「丙午」年が気にされているためだろう、60年に一度の・・・・丙午年の女性は気が強く、男性を尻にしくともいわれ敬遠されてきた。少なくとも最も最近の丙午1966(昭和41)年には,新生児の出生率が、前後の年よりもかなり下がっていた事だけは事実である。男女の産み分けのできない時代、二分の一ある女性の出生を気使うのが、親心という時代だった。

 ・・・さて次の丙午年は、2026年のはず、これから十余年後の事、その時はいったいどのような社会意識か?案外もっとも求められる女性像になっていたりするのでは・・・

 少々馬がコースを外れた。本題は考古館内にある馬に関係した遺物の紹介だった。考古館に展示する馬に関わるものといえば、古墳出土の馬具もあるが、一見鉄くずにしか見えないといわれそうである。埴輪の馬など定番だろうが、残念ながら考古館にはお目見え出来るような馬さんもいない。

 出土地が日本の古墳ではないという事で、当館の日本の古墳時代展示品の中では、少々肩身の狭い物。とはいえ多少でも考古学に造詣ある方は、「はて?日本の古墳では見かけない遺物」と目を引いたかもしれない遺物。これが最初に写真にあげている「馬形帯鉤」(読みは「ばけいたいこう」だろうが、分かりにくいためか古くから「うまがたたいこう」と呼び習わされてきた)つまりは古墳時代の馬の形をした、ベルトに付ける青銅製のバックルなのである。

 長さは鉤状の突起も入れて、せいぜい10cm足らずのものである。写真で裏面を見せているように、半面形だけの馬胴部内面は空洞で、ベルトに取り付け用の突起が付く。たとえ反面でも馬にはたてがみもあり、これなら立派な馬である。ただし日本国内での出土例は、僅かに2遺跡に過ぎない。これと同類の物は、全て朝鮮半島の遺跡出土品なのである。

 考古館蔵品は、既に半世紀近くも前の収蔵品であるが、当時より朝鮮半島での出土品という認識であった。しかし日本の古墳時代遺物の中に展示するには、岡山県・吉備国であるからこそ意味があるからだった。

 日本出土遺跡が2例しかないといったが、その1例は今から百年ばかり前の出土例。現在は岡山市となっている、備中の加茂新庄にある巨大前方後円墳・造山古墳(長径360m)の正面に位置している、円墳・榊山古墳(径35m)からの出土で、今は宮内庁蔵品である。2001年に長野市浅川端遺跡から1点発見されるまでは、長く吉備の国の出土例が、日本で唯一のものであった。

 考古館蔵品の馬形帯鉤は、榊山古墳出土品と大変よく似ている。また5点あるうちの3点について、材料に含まれる鉛が、何処産のものか調べてもらっている。それは鉛同位体に関する研究で、馬渕久夫・平尾良光氏の両先生によるものだが、3点とも朝鮮半島産鉛を含むものであった。詳しくは『倉敷考古館研究集報 第19号』(1986年)を参照されたい。

1985年頃の造山古墳の一帯
左端:造山古墳、 すぐ右の円墳:榊山古墳、 右上方の前方後円墳:千足古墳

 以下に記すことは、古代吉備を知る人にとっては、耳にたこが出来るほど、よく知られた事。先にあげた造山古墳は、わが国で、天皇陵に指定されているような全ての巨大古墳の中に入れても、4番目の規模。この古墳と一群の古墳で、その前方部に近接した正面に位置した榊山古墳、ここでの出土品は、造山古墳とは無縁のものとはいえない。

 しかもこの榊山古墳からは、膨大な鉄くずも出土したと伝えられる。現在の目で見れば、それは当時、多くの小形鉄板を組合せて製作された甲冑だったのか、刀剣や鉄鏃などの武器類だったのか、あるいは農具や工具だったのか・・・ともかく大量の重要な鉄製品が、副葬されていたことを意味している。当時まだわが国では、主な鉄の原料は、朝鮮半島に由来する時代だった。

 榊山古墳のすぐ南にあるのは千足古墳、この古墳については既に2度にわたって話題にした。「よもやまばなし」23(千足古墳石室写真)と122(2011年3月11日と千足古墳)である。参考に見ていただけると幸いだが、いずれにしてもこの古墳は、その構造が北部九州そのままのものであった。

 先の造山古墳の前方部上には、九州阿蘇山系の凝灰岩で製作された石棺の身が、かつてはそこにある神社の手水鉢になっており、蓋は神社社殿の裏手に、破砕された断片が見られる。

 当時の日本を代表する大前方後円墳が、吉備にあることだけでも、実は常識の古代史の中では、大変不思議なことであろう・・・・その古墳が、いかに朝鮮半島や九州の勢力と関係深かったか・・・・こうした吉備の実態は、よく知られているなど思っているのは、どうも私達の独りよがりのようだ。

 4〜5世紀の倭国内では、あの馬形帯鉤で腰を飾ったような人は、他地域ではまだ見かけられなかったのでは。当時の吉備国だけでなく倭国内部では、まだまだそれぞれの「国」が、独自性を持ち、連合や離反もあったはずだ。

 うま年の正月に馬形帯鉤を思い出しながら、正月の話題としては、あまり相応しくもない、馬形帯鉤の故郷の国や、身近な我が国などの、現代社会の政治劇を思わざるをえないとは・・・


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