(174) 南方遺跡の琴の音


(上)岡山市南方(済生会)遺跡木製品出土状況 (弥生時代中期)
(下)こうした中から出土した琴の図 『南方遺跡ー木器類ー』岡山市教委2005年 による

南方釜田遺跡出土の琴図
(『考古学雑誌72-4』「南方釜田遺跡出土の古墳時代琴」1987年による)
 最近各地から送られてくる印刷物の各種、調査報告書ももちろんだが、送ってきた先方の地名を見て、前の地名は何だったかな?・・はまだしも、時にはこれは一体どの地方?何県?・・・と思う事が今も続いている。平成の市町村大合併以来のことである。分からない方が不勉強という事だろうが、なんとも不便な話、せめて県名でも書いてあれば・・

 これは別の話だが、JRの列車内でも時に・・「倉敷」は何県だったかね・・とか「福山」は岡山県だったかな・・・とか、地元人間にとっては思いもかけない会話を聞く。考えてみれば、私たちも全く知らない土地を訪れた時、平気でこんな会話をしているのでは、と思い知らされるものである。

 ということで自分たちが何か多少でも、外に向けて発信する時は、周知されていると思う地元の地名や場所でも、先ずは県名から始め、分かりよい説明をとは心掛けてはいるのだが、さて実行できているかどうか、少々怪しい気もしている。

 今回のタイトルの南方遺跡は岡山市内、既にこの「よもやまばなし」でも152話で取り上げている。その時はかなり詳しく遺跡所在地を説明したつもりだったので、ぜひそちらをクリックしていただきたい。今回の説明が省けるので。同じ岡山県内でも、考古学関係者間では、かなり知られた別の南方遺跡もある。こちらは現在赤磐市になっている、かつての山陽町南方前池遺跡で、縄文時代晩期の遺跡。

 ついでに、今回の岡山市の「南方」は、江戸時代以前からの地名だったようで、江戸時代を通じ、岡山の城下町に接した御野郡の一村名だった。すぐ北にある「北方」もまったく同様で、今では両地域とも、岡山市街の主要部分とも言える範囲であるが、この「南方・北方」が、中世のいわゆる領地「下地中分」に由来した呼名かどうかは良く知らない。しかし江戸時代が始まるころには、南北に分けて把握されるような、広大な良地が旭川河口の沖積地の一角にあったという事は確かであろう。

 152話で述べたように、この南方遺跡からは大変な量の木器や木材が発見されている(左上写真参照、調査報告書『南方(済生会)遺跡―木器類―』岡山市教育委員会2005年による)。かつてかなり広い水路となったような地点からの出土である。主には2000年以上も昔の、弥生時代中期の頃のことである。その頃にはすでに、岡山駅の北にすぐ近接したこの地では、岡山平野を形成した旭川の沖積もほぼ安定し、大きな弥生集落が一帯に広がっていた事に他ならない。

 しかし出土した多くの木製品類の中には、家屋材も多く、木器類にも破損で廃棄したとは思えないような、立派な製品も数多く発見されている。安定した平地とはいえ、時にはなお家屋などが洪水などの災害で、多く流出したこともあったようだ。こうした遺跡の中に数点の琴もあった。

 先回の話題で琴に触れたので、身近な遺跡出土の琴のこともちょっとということで・・

 南方遺跡出土の琴は、一枚の板を加工しただけの物と、下に箱形の付く槽創りの物もあるが、残存するのは琴の表板のみで、すべて部分が欠けている。全長が分かるもので約64cm、幅も分かるもので9.5cm,板の厚さ1cm,弦をかける突起が5個見られるので、4弦か5弦であろうが、それぞれに出土品で差があっただろう。いずれも一見したのでは、ただ何かの板材に見えそうである。先の写真と同じ報告書からの図を、参考に載せた。

 同じ南方地域だが、この多くの木製品が残存した済生会病院用地の遺跡地よりは、500mばかり北東に離れた南方釜田遺跡からも、槽作りの琴が発見されている最下図参照(「南方釜田遺跡出土の古墳時代琴」『考古学雑誌72-4』1983年による)。この琴は推定の長さ110cm内外、幅は17cm,下につけた槽の高さは8cm,一端に6個の突起が付くらしく、5弦だったようだ。古墳時代中頃の物らしい。

 最近もこの南方一帯の調査で、弥生時代の琴がまた発見されている。しかし、岡山県内でも木質の遺物が良く残存する遺跡が、今までにかなり調査されてはいるが、その中で弥生から古墳時代も含め、他に琴が出土した遺跡があっただろうか?

 少々不勉強のため、岡山県内で皆無とまでは言えないが、ともかく岡山市の南方遺跡ほど多量の琴の出土は知らない。たまたま木製品の保存状況が、他の遺跡との比でなく良好だったかもしれないが、弥生時代中期が中心のこの遺跡で、何か特別の理由があったのか。

 当時の琴の音にどのような意味があったのか?・・弥生時代の中期頃といえば、岡山平野のあちこち、いわば旭川の下流域の平地内に、南方遺跡のような集落地が点在していたことが遺跡の分布状況から知られている。

 現在の旭川ではその東岸域にあたり、沖積地のど真ん中の雄町と言うところからは、民家で鯉のぼりの竿を立てる穴を掘っていて、銅鐸を掘り出した。弥生時代中期頃にあってよいタイプの銅鐸である。この雄町から言えば、直ぐ南に当る操山山塊近くの兼基からは、3個の銅鐸が出土したとされている。

 南方あたりに住まった弥生時代人は、当然銅鐸を知っていたはずである。銅鐸は、最初は音を出すことに意味のある道具であったものが、次第に外観が飾られ、見せることに意味があるものに変わったようだ。祭りの道具立てになったともいえる。

 一方で琴は、古墳時代頃からは、少なくとも何か神祭りの際の音響であったとしても、銅鐸と共にある時代からそうだったのだろうか。外来の初めて目にする金属で作られた銅鐸と違って、琴は身近な木材で、誰にでも作り得るものでありながら、作り手と弾き手により、奏でる音色と旋律の違いは、聞く人々に特別の感懐を与えるものだったのでは・・・そうしてそれは神をも招く手段になったのでは?

 ・・・・かつて南方の弥生集落には、当時珍しい琴を作り、それを奏でる達人がいた・・・彼の出身地は分からないが・・・次第にそれを習う人も多くなった・・・板に張られた4本か5本の糸から流れる、不思議な音色・・・それは村人達のいこいでもあり、互いの絆でもあった・・・・

 弥生時代の岡山平野の一角、旭川の水辺のである日、銅鐸が飾られ豊穣のための祭りの日、板に張られた5本の弦が、そこで天に向かい異なる音色を発することが、恒例だったのだろうか?・・あるいはしばしば対岸の村から聞こえてくる、心に響く不思議な音色だったのか・・・・

 鯉のぼりの季節になると、鯉のぼりの竿の穴から出た銅鐸を思いだす。銅鐸と同時代頃の近くの遺跡出土の琴・・・あまり関係付けられてないようだが・・・


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