(177) トイレばなし

(上)左の建物消防車庫、その右下建物がトイレの背後、向こうに考古館。偶然画面に入ったトイレ横の人物は、犬を連れていた。
(下)上の逆方向から写す。中央がトイレ。右建物部分が、消防車庫。
 「すみません!トイレ何処ですか・・・今そこで聞いたのだが・・無い!」

 考古館東の道沿いで、僅かな植え込みの草取りをしていると、背後で熟年男性の少々あせった声・・あゝ、また・・・聞いている人の背後がそのトイレなのだが。考古館の職員はこうした経験がしばしば・・・

 「その後がトイレです。入り口はこちらに回って・・・」指差しながら数歩一緒に・・・「・・すみません・・」とかなり急いだ様子で入り口へ。二人同年輩の同行者がいたようで、すぐ後から来て「消防車庫は分かるが・・・」と独り言のような発言、3人でトイレを探していたのだろう。

 左上の写真を見て、もし「トイレはすぐそこの、消防車庫の隣です」と言われていたら、倉敷がはじめての方として、「貴方ならすぐトイレが分かりますか?」・・・写真の中の、考古館のなまこ壁手前の低い建物がトイレ、左に写っているのが消防車庫。このトイレの右手の考古館壁際の植え込みで草取りをしていたのである。

 左下の写真はほぼ逆方向からの写真。ここにはトイレマークはあるが、何にしても形が丸く、すぐ入り口が分り辛い。ましてトイレの位置を聞いた人のように(写真中の人物と同様)、入り口の逆方向から来たら・・・この道から来る人も多い・・・トイレマークも見えない。せめてトイレの背後にも、トイレマークを付けて、入り口方向を示す表示でもあればと思う。市関係の観光担当者に、幾度か頼んだが何の結果も現れない。

 倉敷市も、観光行政には力を入れていると思ってはいるが、トイレの外観は気にして、形を変えたり、飾りをつけたりはしても、肝心のトイレ表現が見えないと、急いでトイレを探す人には、かえって探し辛い。

 その一方では、市で修復復元もした古民家(倉敷物語館)の立派な門の前へ、白地に「トイレ」とだけ大きく書いた、1m以上もあるような看板を立てていた。今少し工夫もありそうなものと言ったら、そのためかどうかは知らないが、その後は見られなくなった。トイレサービスも、なんともチグハグな感じ。

 この地域が、伝統的建造物群に指定された当初は、看板の規制も、幟を立てる規制も、官民が一体になって考えて来た筈だ。最近は店舗がどんどん代替わり、市の関係職員もすぐ異動、今では幟なども看板も、勝手放題という感じである。数年ぶりに訪れた友人が、開口一番「倉敷は変わったな」だった。

 トイレから少々脱線したが、トイレは人間生活の基本的営みの関連施設、大げさに言えば、歴史の一端をも担っている。周知されているように、トイレ考古学も常識。その研究世界では、人に取り付いた寄生虫が土中に痕跡を残したものが、重要な資料として活躍とは皮肉な話である。

 ところでトイレ考現学のほうでは、近年便器具進化の早さにもなかなかついていけない。多くの人が利用する公衆トイレには、道路上のサービスエリア・デパート・ホテル・病院等々・・・のものも多い。そこには大変綺麗な新製品、だがこうしたトイレに、前使用者の残し物を見ることも多くなった気がする。使用法がすぐ見つからなかった結果だろう。

 人ごとではない、こちらも残り物の処理にとまどうのである。急ぎのときは、つい隣へ・・・トイレだけでなく、身近な日常の道具の変化の速さ、将来考古学などという学問が成り立つのだろうか、同一地点でも極端な生活用具の格差・・・またトイレから脱線・・・

 今や海外の各地を訪れるのは、日常茶飯事。各国のトイレについては様々な知識や経験を、皆さまもお持ちのことだろう・・・・これは身近な経験談で・・今から考えれば数十年も昔の事になったが、中国旅行がまだ規制の強かった頃、日本各地の博物館職員が団体で、中国各地の博物館や著名遺跡を訪ねた。この時は、トイレにかなりの覚悟で臨んだもの、山野の場合の方が、むしろ気が楽だった。

しかし中には男性でも、すでにどうしても野外で用が達せられない人物もいた。習慣とは恐ろしいものだ。よほど良い環境に育った人だろう。少々ルーズに育った事を感謝。いまどきの子供はみんな、あの男性並みでは?・・・災害時などのためにも訓練が必要か。

 これも幾十年も昔になるが、やはりツアー旅行でインドに行った時、若い女性の多いメンバーだった。広い平野の真ん中でバスがエンコしてしまった。運転手さんあれこれ手を尽くしていたが、一向に動かない。 周辺の見晴らしの良い畑や草地に出ていた人や子供が、家畜まで引き連れて、何事かと寄って来だした。

 時が経つほどに、我慢ならなくなるのが我々生き物の性・・・サー困った。集まってきた多くの子供たちや人々をどのようにごまかすか。何か互いに手真似や片言で話す間、幾人かがこっそりと囲みを抜けては、道路から離れ、傘や衣服や人垣で隠れるようにしての行動。チームワークが大切だった。それでも幾時間かの後まで、我慢した人も多かった。

 このとき子供たちが数頭のヤギだったか羊だったか連れてきていたが、その頚にかけた真鍮の鈴が欲しくなって、手まねで分けてくれないかと持ちかけたら、子供の方はOKで、商談成立・・・ところが本体の方が、頚につけた鈴を外すのを嫌い、逃げていってしまったような事もあった。

 ところで、太平洋戦争中、岡山空襲の最中、その中を逃げ惑った経験を持つ。我が家はもちろん全焼。頭上で炸裂して降りかかった焼夷弾を避けて、煙をくぐってやっと逃げ延びた。多少安全なところへ着いた時、尿意を思い出す。周辺には逃げて来た人も多い。すぐ近隣の家で、便所の使用を願ったが、拒否された。

 周辺の人家の中には、すでに避難していた家も多かったようだ。表の開いた家で、声をかけたが誰も居ない、家族みな避難したのか?見るとすぐ廊下の縁に便所が・・・黙って上がって、勝手に使用・・・・今なら住居侵入罪だろう。

 その後、そのお宅は被災することなく、ずっと住まわれていた。時に脇を通ることがあり、申し訳無く、懐かしくも有ったがそのまま失礼・・・いつの程か、この家は広い道路内に消えていた。

 左右の写真とも、大原美術館の川向うにある大原家の裏の道筋である。西から東を見た物で、右手に大原家の蔵が並び、その向こうが、有隣荘。
 両写真とも、故中村昭夫氏の写真で『倉敷今昔写真帳』に載るが、共に部分。左が1957年、右が1978年撮影。左には道路脇に小屋が見える。
 これはかつてここにあった公衆トイレである。20年後には無くなっていた。60年も昔の考古館横のトイレは、もっとお粗末な小屋だった記憶。
 博物館の話では、かつてのパリのルーブル宮には、トイレが無かったなどがよく話題とされるが、古い倉を利用して開館した当倉敷考古館も、トイレは無かったことを知る人は、もうほとんど居ないのでは。当館では職員も来館者も、この話の最初に出た公衆トイレの、はるか前身のトイレのご厄介になっていた。

 開館7年後の考古館増築時にも、トイレは作られなかった。それが抵抗も無く受け入れられた時代だったといえる。しかしさすがに職員は不自由であった。倉敷考古館では、開館25周年目の行事の一つに、『二十五年の歩み』という薄いパンフレットを作って配布した。これは『考古館研究集報 11号』の後に付けた部分の抜き刷りである。

 その中に昭和45(1970)年のこととして『・・・開館20年目でやっと「トイレ」と「小台所」が付く』と記している。当年の考古館日記によると、設計図は6月頃にできたようだが、出来上がったのは、年末ぎりぎりだった。「年の瀬まったくばたばた・・ワンワンもさようなら」と書いていた。1970年は戌年だったためか。

 今では、飼い犬も自宅トイレに馴染んだものもいるとか。しかし考古館建物の角や壁は、今も、犬は散歩人付きでも、大っぴらの公衆?トイレ・・実は最初書いた、考古館横の小さい植え込み場所は、4〜5年前までは土のみだった。ここが犬・猫の糞所、毎日のこと困り果てて、館員の手で挿し木によって、手造りの植え込みを作ったのである。

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