(178) 熊山石積遺跡と松本清張さん

熊山山頂近くの基壇付き三重の石積み石積み
 著名な作家松本清張氏を「さん」付けで呼ぶほど、お付き合いがあった訳ではない。ただ妙な遺跡に関わって、清張さんとは、一期一会ならぬ三会くらいの接点を持つことになったのだが・・・ともかく多作な著名作家であった清張氏にとっては、私たちとの接点は、作家活動での多種多様な資料集めの、一瞬の一駒だったのであろう、とは思っている。

 松本清張氏も今年(2014)は没後既に22年。今回の話は1981年9月18日のことだから、30年以上も昔のことだ。実はこの古い日付も考古館の日記からは、なかなか見つからず、倉敷市の教育委員会に問い合わせて、やっと分かったようなことである。というのも事の起こりは、当時の教育委員会の文化振興事業にあったためである。

 そのころ倉敷市は、著名な小説作家を次々招いて文化講演会を開催していた。私どもの考古館は、倉敷市とは全く関係ない財団法人の博物館であり、市の事業とは無縁であった。ところが松本清張氏に講演依頼をしたら、考古館の間壁忠彦に熊山遺跡などを案内してもらえるなら「OKだ」とのことだったようだ。

 倉敷市側で交渉に当たった人物が、突然間壁の名前が出て、それが何者か知っていたかどうか、と言うぐらいの事だろうと思う。きっと驚いた事だろう。また考古館にとっても、それまで館も個人も、一切清張氏との接触はなかったのである。

 考古館は市とは無縁とは言え、教育委員会の文化財に関係した職員の人々とは、個人的には、何かと互いに交流は多い仲だった。教育委員会への困った依頼を聞くと、清張氏がこのような依頼をした理由も、私どもには思い当たることも無くはなかった。そのことは少々長くなるので、次回の話題にしたい。ともかく当日の熊山遺跡行きは承諾したのである。

 熊山遺跡は、松本清張氏からこの遺跡名が出るように、古代史や古代の遺跡に関心のある人であれば、知っているのが当然と言えるほど、岡山県では著名遺跡の一つである。岡山県南部では最高峰とされている熊山の山頂(508m)近くにあり、国指定史跡の基壇付三重石積遺構のことである。(左上写真参照)

 基壇が約11.8m四方、全高約3.5m弱。二段目の四方中央にはそれぞれ龕があり、頂部には竪穴が作られ、そこに高さ約170cm、下方の径23cmばかりの、須恵質筒形容器が納められていた。この容器は輪切りにしたような5分割構造だが、中に胴径5cm程度の三彩小壷が入っていたと伝えられるが、現在は一枚の写真を残し、実物は紛失。須恵質外容器のみ残り、天理参考館蔵品となっている。

 この遺跡はかつては僧侶に戒を授ける戒壇かとも言われたが、いまでは形態や出土品、類例の遺跡などから、奈良時代の特異な仏塔とされている。

 ところで清張氏は1981年9月18日の当日は、熊山遺跡から、山陽町の遺跡周辺を見て、造山古墳まで上って、夜倉敷で講演会、題目は「日本古代史の新観点」。これも教育委員会の人から教えられた。こうした教示によって、やっと館の日記も検索できたのである。当日の講演会には間壁は失礼したが、日記によると考古館の女性職員2人は、閉館後講演を聞きに行っている。後に聞いた話では、講演で熊山遺跡の事は何も出てこなかったようだ。

 考古館日記によると、翌19日は雨。清張氏は午前中考古館を訪れ、長時間見学し、私ども相手に大おしゃべりした。午後はまた間壁が同行し、児島で土器製塩遺跡のあった辺りを回って、その後岡山駅から新幹線で帰京。岡山空港から飛行機で帰る予定を、キャンセルしたようだ。

 ところでなぜ今頃、熊山遺跡や清張さんの事なのだと思われそうだが、実はつい先日となる今年(2014)の5月に、考古館指導と言う形の『続日本紀』を読む「グループくすのき」会で、例年の行事である一日見学遠足に、熊山遺跡を訪れたのである。

 この会ではこのところ、長く県外遺跡の見学が続いていた。 というのも半世紀近くにもわたって続いているこの会で、最初は年2回歩く事を中心にして、主に県内の史跡や遺跡を巡っていた。そのため近くで手軽に訪れ得る遺跡が、無くなったのである。

 だが今年は久しぶりに県内でもと言うことで、熊山も整備が進み、小型バスなら上れると聞き、備前焼の窯跡整備も進んでいるし、これらを含めての見学ということになった。このとき、はるか昔に松本清張氏が、熊山を案内して欲しいと言った事、など思い出す事になったのだ。そこで冒頭からの話になったのである。

 ともかく、この会では徐々にメンバーがかなり変わったとはいえ、熊山も備前窯址も以前1〜2度行ったはずと思っていたが、今回考古館日記を繰っていたら、偶然にも、清張氏が熊山に上った年に,「くすのき」会も遠足で熊山へ行っていたのである。しかしこの時、会のメンバーは山頂まではタクシーで行き、少なくとも山頂からの帰り道は歩いて備前へ下ってきたと思う。

 今回、個人的にも十数年ぶり以上だろうか。全く久しぶりに訪れた熊山遺跡だった。その変貌に驚いた。かつては三重の石積遺構周辺は僅かな空間以外は、鬱蒼と樹木の茂る深山という感覚だった。ところが今は、周辺は切り開かれて、広く平坦な地が広がり、はるか瀬戸内海の彼方まで見渡せる、展望台までもうけられている。

熊山の石積遺構近くにある正応5年(1292)銘の宝篋印塔
松本清張氏の手紙部分
 この近くの山中には大小はあるが同様な遺跡が,30近くあるようだ。しかし製作時期はすべてが同じ頃とはいえないようだ。時期によってこの様な見晴らしの良い環境があったら、深山にこもる僧侶の解脱の地というより、山城があってもおかしくない。

 石積遺跡の近くには、以前から小形ではあるが、岡山県下では最古の紀年銘「正応五年」(1292年・鎌倉時代)を刻む宝篋印塔がある。これは元の位置のままだっただろうか?周辺の環境が変わっていてよく分からないが、以前よりは見やすくなっていたようだ。僧侶の名前も刻まれているが、この名前は既に古くから正確でないようだ。

 清張氏ここでは、説明を聞いただけで、黙っていたが、何を感じていたのか?そのころはまだ周辺は樹木に覆われて、鬱蒼とした深山の雰囲気だったはずだ。

 後日清張氏より自筆の書状が届いていた。家の何処かには保管していた筈と、探し出して、始めてゆっくり目を通した気がした。便箋5枚にわたる大変丁重な礼状だったので、今頃になって少々驚いている。文の終わりには、「新幹線の中では,一時間はぐっすり熟睡しました、戻ってみると、東京もまた雨でした。」とあった。(右写真参照)

 清張氏が書いたと思うと、作品の一節のような気もする。こんな手紙もあったので「清張さん」と書かしてもらった。


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