(179) 石宝殿・清張さんとの接点

江戸時代の司馬江漢(1736−1818)の『西遊旅譚』より

(上)生石神社裏山より見る石宝殿。岩山を丸く刳り抜きながら、宝殿を彫残している。
(下)石宝殿実測図、1968年に、地元出身、天理大学教授でもあった西谷真治氏実測図
 「あゝやっと、石宝殿も国指定史跡になったか・・」このような感懐を持った人は、岡山県に居ただろうか!?・・・2014年6月20日のことである。わが国での文化庁文化財部による、例年の新文化財指定の史跡発表の中に、兵庫県高砂市にある石宝殿があった。これはその地にある、生石(おうしこ)神社のご神体石である。

 岡山県を中心とした地方紙新聞には、他県の新指定事例は、近年話題の物は記載していたが、この遺跡の名前は見えなかったようだ。ということは、この遺跡は岡山県に隣接した地にありながら、忘れられている遺跡と言える。

 しかしここは、江戸時代には日本三奇の一つともされ、多くの旅人が訪れた、名所旧跡だった。多くの絵図も残されていた(右の絵参照)。幕末の著名人シーボルトも江戸参府途中に、この地を訪れており、著書『日本』の中には精巧な石版画も残している。

 今回の石宝殿一帯の指定理由は、古墳時代に始まり、現代までも続く石切場ということであったが、山腹の大きな岩を刳り抜いて、井戸のような中に彫り出された横倒し姿の社殿形石宝殿は、正に奇観で、これが残るからこその指定であることは違いない。

 しかも奈良時代にまとめられた『播磨国風土記』にも、そのものズバリの大きさ形で、「作石」と称されている物が、現在地に違いない場所に記されている。奈良時代の記述そのままの遺跡が、推定や伝説で無く、間違いなくそこに実在するなど、稀有のことである。

 だが現状は、写真にすると左上に示したように、何処から見ても全形は写らない、真上からでも見ない限り。参考に図も示したが、江戸時代絵図のほうが、よほどイメージが沸くだろう。

 この本体は、その場にあり、そこで見るものとして造られたとは到底思われない。全形も見辛く、そのままでは美しいとも思われない現状から、造りかけて最終近くで放棄されたものであることは明らかだろう。

 後世の人々が、この神体石製作に付加した伝説でも、天邪鬼が神様から製作を命じられ、一夜と限られた事で、労働があまりにも厳しいため、偽って鶏を早く鳴かせて時間を短縮した事で、完成しなかった、とすることから見ても、誰の目にも未完成に映るものだといえる。

 大きな家形状に刻み出された実体の、用途が何であったのかは、まだ謎であるばかりでなく、この石造品が、古くは周辺の窪みに水がたまっていたことから、浮石とも言われたように、下面で岩盤から切り離すばかりまで製作されながら、そのまま放置された理由も、今なお謎なのである。

 先回の話題で、松本清張氏が倉敷市で講演を頼まれた際に、三重の石積遺構である熊山遺跡に、全く関わりの無かった間壁の案内で行きたいと言ったのには、思い当たることもあると言ったのは、じつはこの石宝殿との関わりであった。

 松本清張氏は1973年6月から翌年の10月まで朝日新聞に「火の回路」という小説を連載した(単行本では『火の路』と改題)。じつはその中で飛鳥の石造物や、この石宝殿を取り上げていた。たまたまその時期、私ども間壁二人は、石棺の石材研究を3年ばかりは続けたことで、現代でも石材産地として知られた、石宝殿のある竜山の石材が、5世紀始まり頃以来、石棺となって、近畿一帯から西日本にも多数運ばれていたことを、初めて明らかにしたのである。

 このことを記したレポートとしては最初のものを、1974年5月出版の『倉敷考古館研究集報9号』に載せたのである。全く初めての見解だったことで、考古学者仲間の中にも、すぐに受け入れた人ばかりではなかった。しかし現在では全く常識化した事実で、誰が最初にこのことに気付いたかなど、忘れられているようだが・・・・

 このとき松本清張氏は、連載中の小説の中で、石宝殿は、シルクロードの影響下、イラン辺りの拝火教の拝火壇ではないかという謎を含ませた小説をすすめられていたのだ。その中で早速にこの論文名とその掲載誌まで、小説の中に記されたのである。

 朝日新聞を購読していた事もあり、この事実を知らなくもなかったが、あまり問題とも思ってなかったら、考古学とは全く関わりない友人が「最近石の研究をしているのか」といったので、松本清張小説の、影響の大きいのには驚いた事はあった。

 先回の熊山行きは1981年、小説連載はその時より6〜7年も前の話である。ただその間に、私どもは石棺石材についての研究は、続けており(今も無縁ではないが)幾本かのレポートのほかにも1978年には『日本史の謎・石宝殿』を単行本で出版していた(この版は六興出版、1996年に神戸新聞総合出版センターから再販『石宝殿』)。

 以上のような事で、古代史の謎好きの松本氏の記憶に、我々の名前があったのかとも思う。しかしお会いした時には、既に石宝殿は過去の事だったのか、全く話はなかったが、熊山遺跡が気になっていたのは、まだ「石壇」に多少こだわりがあったのか・・・・考古館での様々な遺物にはそれぞれ興味があったようで、石宝殿とは関係ない、盛んなおしゃべりとなった。

 この時は、このような「一会」が、後に出雲の荒神谷遺跡で大量に青銅器発見後の問題につながるなど、知る由もないことだった。またの機会にそれにも触れよう。・・・ともかく今回、石宝殿が国指定史跡になったことで、朝日新聞はこの件をかなり詳しく報じ、松本氏の名は挙げてなかったが、拝火壇の説もある、と載せたのは、同紙上に連載した小説を意識しての事だっただろう。

 私どもも今は故人の清張さんに敬意を表し、彼が意識した、ペルシャ(イラン)のナクシュ・イ・ルスタムの拝火壇写真をここに載せたい。この写真は今から半世紀近くも前に、間壁忠彦が当地を訪れた際の写真。また小説に拝火壇近くの方形建物と記された遺構と崖墓の写真は、2011年間壁葭子が団体ツアーで現地を訪れた際の写真である。

(左)イランのナクシュ・イ・ルスタムにある拝火壇、岩山から彫りだして造られている。(右)は王墓の刻まれる断崖に面して、切り石積みで作られた方形建物。高さ約11m。拝火神殿か?
左3枚の写真は、イランのナクシュ・イ・ルスタムにある断崖一帯の遺構。 アケメネス朝ペルシャ期(B.C.550−330年)のもので、この断崖にはダレイオス大王(B.C.521ー486年.)以下3代の十字形王墓が刻まれている。
右端写真の右側十字形墓がダレイオス大王の墓である。
ダレイオス大王は、拝火教の神を礼拝する場面の彫像が、ペルセポリスの背後に残されている。

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