(182) 再利用再び・・(2)重源と狭山池


(上の右)東大寺鎌倉再建時・平瓦、〈左は比較の近代瓦〉
(下)同・軒丸瓦 共に吉井川出土だが場所は異なる
 左に示した写真は考古館蔵の瓦だが、大きさの比較に置いた近代の小平瓦を除き、大きな平瓦と軒丸瓦は、今もまだ奈良東大寺のどこかの建物に、葺かれている可能性もある瓦である。平瓦には「東大寺」の刻印があり、丸瓦の軒先模様としては、中央に梵字周辺には「東大寺大佛殿」の文字が廻る・・・・だがどーもよく読めない、摩滅がはげしい・・・・

 岡山では知る人も多いことだが、平氏による南都焼討ちによって消失した東大寺が、鎌倉初期に再興された時の瓦である。岡山市東区瀬戸町万富にこの瓦を焼いた瓦窯跡が古くから知られており、昭和2(1927)年から国史跡に指定されている。

 この窯址は山陽線万富駅の東北0,5kmも行かぬところで、東1kmばかりには吉井川が流れる。写真の丸瓦は、この窯址に近いすぐ東の吉井川で採集された。平瓦の方は、吉井川河口が海に接する近くの、西大寺永安橋周辺浚渫中に、水中から上がった物、表面に牡蠣殻が付いている。共に古く館に寄贈されたものである。

 これらの瓦は、はるばる奈良へ運ばれた多くの重い瓦が、人から川舟に、川舟から瀬戸内海を行く大船に積み替えられた時に、取り落とされたのか・・・・まるで運搬道を示す「道しるべ」のようである。瓦の摩滅がはげしいのも、落し物だったためだろう。

 ちなみにこの平瓦1枚の重さが7,4kg、比較の近代平瓦は、軒先瓦だったので普通の平瓦より重いもので、1,8kgだった。一般的な現代人が、少々の距離持ち歩くとしたら幾枚持てるだろうか・・?

 ところでこの東大寺瓦が岡山の備前国で焼かれているのは、これも著名なことではあるが、鎌倉初期に東大寺再興のための造営料地の一つとして備前国が、勧進職に任ぜられた俊乗房重源(1121〜1206)にまかされたことによる。すでに61才であった重源の、生涯をかけての大事業であった。そのための一つとしてこの瓦生産もあった。

 歴史上の著名人・俊乗房重源と、考古館の資料も多少かかわりがある、と言いたいばかりに、前置きが長くなったが、本題は「再利用」のこと・・・・しかも先回話題の「石棺」と同類の話である。

 重源は東大寺復興に限らず、各地に多くの土木的な業績をも残している。宗教活動の中で多くの人々を結集し得たのであろう。彼の業績は『南無阿弥陀仏作善集』にまとめられているが、その中には、大阪狭山市にある、狭山池改修事業もある。

(上)重源によって、石樋に使用された、多くの石棺 (下)亀石と呼ばれていた6突起の付いた家形石棺の蓋
 この狭山池は日本で最古のダム式のため池とされており、『日本書紀』にも崇神紀に河内の狭山に池溝を築く話もある。1988年の調査で、樋に使用されていた木材の年輪年代測定で、7世紀前半から築かれていたとも推定されている。

 その後も各時代に大切な水源として、狭山池の改修が繰り返し行われているが、古くには天平3(731)年の行基の改修があり、建仁2(1202)年に重源による改修が、『作善集』にある。しかしそこには「河内国狭山池は行基の旧跡、しかし堤破れ崩れ既に山野と同じ、これを改複のため臥石樋六段云々」とあるだけだった。彼はこの時大仏殿再興は終えており、すでに82歳である。問題はこの石の樋で、後世の改修でこの石樋は古墳時代石棺が多少加工されただけでそのまま使用されていた事が、判明していたのである。

 近年の平成大改修が行われるまでも、樋として使用されていた石棺数基が近くに保存されていた。これについては、地元狭山の旧家出身で、橿原考古学研究所の初代所長にもなり、多くの研究者を育てられ、文化功労者でもあり文化勲章受章者でもあった、末永雅雄博士の著述『大阪狭山市史要』(1988年)に、思い出を交えた詳しい説明がある。

 末永氏によると、少年時代、樋口の水路に亀石と呼ばれていた石があり、樋が抜かれ激しい水流となると、自分たち悪童は、誰が一番長くこの石にかじりついて居れるか、争っていたとのこと。亀石は家形石棺の蓋だった。その形はまさに亀である。

 大正末年・昭和初(1925)年頃になり、慶長以来の樋の改修があり、この時数個の石樋となった石棺が発見されたが、改修には不用品であり、その場で壊し、バラスにされかけたようだ。末永氏は、即座に自費で、石1個30円の酒代と言う事で、搬出保存されたのである。当時の30円の価値を考えていただきたい(よもやまばなし(127)話も参照)。

(上)狭山池、江戸時代改修時の中の取水口、右側端護岸石上部のものが、鎌倉時代重源改修時、製作された石碑。他の護岸石も、重源が石樋とした石棺を再度利用したもの
(下)重源の狭山池改修石碑
狭山池関係の写真はすべて、狭山池博物館提供
 それから半世紀も後の1975年頃、倉敷考古館で私たちと仲間が、石棺石材の調査を各地で行った時も、末永氏の努力でかろうじて残された石棺を、検討させて頂ける学恩をうけたのである。5点竜山石の家形石棺が用いられていた。この地域にも多くの竜山石石棺が運ばれており、再利用されていたのである(『考古館研究集報12号』1976年参照)。

 狭山池は近年のいわゆる平成の大改修で、今一度この石棺の一部が再利用されていたのが判明した。其れは1608年、豊臣秀頼の命で、片桐且元が行った、慶長の大改修だった。

 ここでは、新たな樋口の堤内側の護岸が、以前樋に使用されていた石棺をも含め、がっちりと築かれていた。そこで最も驚かされたのは、重源が改修した時の経緯を刻んだ鎌倉時代の記念の石碑までが、護岸の石として、埋め込まれていたことだった。

 この石碑が発見された調査は、1993年だったとのことなので、おそらくそのときだったと思うが、面白い物が出土と聞いて見学に行った。今回大阪府立狭山池博物館から提供された写真そのままの現状に、心の騒ぐ思いで遺跡を眺めた事はよく覚えている。

 慶長の改修時から言っても既に400年も昔の人達が、その同じ池を力を集めて改修した、その思いを刻んだ石碑まで、再利用して池の中の護岸に使ってしまったとは・・・・その時の心の騒ぎは、歴史事実を刻んだ物など、いわば文化財など眼前の事態の状況では、何の価値もないもの・・・ただの石だったのだ、と言うことだ・・これは現代でも同じだと言う事が突きつけられた思いであった。

 ・・・後に聞けば、碑は護岸の定礎の意味で使用されたのではとの理解もあるようだが・・・いずれにしても、石碑は再利用されており、この碑によって重源工事の際には、非人まで万人が力を合わせ、石を引いたことも知られたのである。

 現在はこの平成大改修を契機に、大阪府立狭山池博物館が近接した地に設立されて、狭山池の歴史や遺物・遺溝・工事などの貴重な資料を見ることが出来る。この話題の中の多くの写真も、様々な教示も博物館からご提供いただいた。感謝と共に、こうした博物館は先人の知恵を学ぶとともに、未来に残す自分たちの姿を見つめるところだと、博物館の職員として、声を大きくして宣伝したい。


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