(187) 最古の土器と細石器

(上)福井洞窟を稲荷社拝殿下から見る,1960年代。現在では、周辺状況は大きく変わっている。 (下)洞窟内の稲荷社本殿。
長崎県福井洞窟出土品 (上)土器を伴った細石器
(下)上の地層より下層で出土した土器を伴わぬ細石器、この層には、サヌカイト製の石器を伴う
 左の写真は考古館に入館した方が、先ず目にする覗きケースに並ぶ、僅かな土器片と石器である。ガラスを思わすような黒く光沢のある黒曜石、これをまるでナイフで巧みに削ったような小さく細長く鋭い石刃(細石器)とその本体の石(細石核)。こうした石器に記憶のある方でも、そこにともに並んだ土器片が、記憶いただけているだろうか。

 黒曜石の細石器にしても土器片にしても、全体としてこのケースに並ぶ石器の前は、多くの見学者は素通り場所のようだ。「石ころ」だけが並んでいるのだから。しかしちょっと熱心に見れば、石ころから石器つくりのルールも見えてくる。同じ人間が作っているのだから。

 現在では、常識ともなっているわが国における旧石器時代の存在、その発見の経緯である群馬県の岩宿遺跡と相沢忠洋氏のエピソードは、今や学史の中に埋没しかけているようだが、その岩宿遺跡と同じくらい重要ともいえる、旧石器時代から縄文時代への繋がりを証明した、その資料の一部が、左の写真に示した福井洞窟の出土品である。

 福井洞穴の第1次調査は1960(昭和35)年の夏、今から55年も前のことになる。佐世保市吉井町福井、当時は長崎県北松浦郡吉井町。佐世保駅から平戸方面に向かう列車で吉井駅下車、佐々川の支流福井川をほぼ北へ進んだ谷筋の砂岩岸壁にある河蝕洞窟。これが福井洞窟だった。そのころの吉井は炭鉱の町であった。

 岩宿遺跡発見から10年あまり、旧石器時代遺跡が全国的に知られ出したころのこと。西北九州でも長崎県大村湾東岸千綿で、僧侶であり郷土史家の井手寿謙さんの石器採集遺跡が注目され、唐津付近の遺跡発見は、後に九州歴史資料館で活躍した若き日の松岡史さんの採集による。福井洞窟は、佐世保市の文化会館に展示されていた郷土史家松瀬順一さん採集の石器から、その存在が明らかになった。いわばみんな在野の人たちの努力に始まった。

 洞窟は幅17メートル、奥行き5メートルほど、厚さ5メートル余りの堆積土があり、ほぼ中央奥に稲荷社の小さい本殿が造られ、そこから石段を降った下の平地に拝殿を建てている。

 発掘範囲は稲荷社本殿に向かって右隣りに幅2メートル、奥壁から入り口へ長さ8メートルのトレンチだった。洞窟内地表は社殿造成の時平坦に削って、洞窟の入り口方向へ土をかき出していたようで、現地表よりも上にあった縄文時代の土層はほとんど失われ、掘り始めるとすぐに、写真で示したような細石刃が出土しだす。

 この細石刃は長さ2センチばかり、骨や木へ片側の刃の部分を植え込み、反対側の刃で切る植刃技法の道具である。それらを作った石材は長崎県の西隣りに接した佐賀県西北部腰岳産のものが多いようである。

 細石刃は、そのころまでの研究で、日本の旧石器時代の終末期を代表する石器とされていた。ところが、ここでは細石刃と一緒に土器片が出土する。土器は旧石器時代には無かった道具で、新石器時代を標徴するとされている煮沸具である。食物を煮炊きすることは、農耕や牧畜と共に旧石器から新石器への革新の要素だといわれている。

 ところが、福井洞窟では、細石刃と一緒に土器片が出る。細石刃には土器が伴わないというのが当時の常識であるから、当初は細石器よりも新しい時期の土器片が混入しているのかと考えていた。

 しかし、だんだん深くまで掘り下げても、細石器と土器は共に出土する。両者が共伴する土層は、60〜70センチにも及ぶ。その間の堆積土は砂岩洞窟から落下して積もった砂であり、後の時代の撹乱等をうけている様子はない。また、土器に伴って出土する定形的な石器は細石器のみであった。

 土器の種類は、爪形文と隆起線文の土器で、これは、戦後の日本考古学が新たに旧石器時代研究を進めるなかで知られるようになり、当時新しく判明しだした土器。それまでの縄文土器の五大別、早・前・中・後・晩期の前に、これらの土器を草創期として位置づけることが提案され出したころであった。草創期の土器に伴う石器としては、槍先形尖頭器の系統のものが判って来ていたが、細石器に土器が伴う例は知られていなかったのだ。

 細石刃と隆起線文や爪形文の土器が発見された土層の下には、土器を伴出しない細石刃の土層が続く。これは、まさに後期旧石器終末期のものである。細石刃は土器を伴ったものと同様であるが、細石刃を剥ぎ取った細石核の形には明らかな違いがみられた。

 土器を伴う細石核は舟底形に整形した一端から順次に細石刃を剥ぎとり、剥ぎ取りのための打面を細かに打ち欠いている。これに対し土器を伴わない細石核は円錐形に近い形の周囲から細石刃を剥ぎ取っていて、剥ぎ取りの打面は平坦な一面でできている。そのほかにも、土器を伴わない細石刃の土層からは、安山岩製の定形化した石器、分厚い削器や片面加工の尖頭器も出土する。

 土器を伴わない細石刃と細石核を出土する土層の厚さは、土器伴出の土層の3分の1程度と薄い。また発掘区は、深くなるほど壁面が傾斜し、そのため発掘可能な面積も下層ほど狭くはなる。しかしそれだけの理由で、土器を伴った土層の細石刃が断片まで数えると7.000〜8.000点であったのに対し、土器を伴わない土層では40分の1、細石核は10分の1程度の数であったことの,説明にはならない。

土器を伴う細石刃の数は大変な多さで、初期的な整理だけでも随分な労力を要した。余談ながら、縄文時代の研究を永年にわたりリードしていた東京大学の山内清男先生は、そのころ草創期研究に熱意を示されており、ヤッカミ半分冗談半分に、「福井ではカンナクズを掘っている」と言われたとか。連続的に剥離する細石刃の量を、カンナクズに例えたのである。

 また、これも余談になるが、爪型文・隆起線文の土器と細石刃の伴出状況を、発掘に参加していた当時の新進石器時代研究者、立教大学岡本勇さん・北海道の吉崎昌一さんを始め若い研究者は、早々に細石器と草創期土器共伴の現実を直視したようだが、旧石器時代終末期研究の最前線で活躍中の東北大学の芹沢長介さんは慎重だった。

 福井洞穴の発見者松瀬順一さんはかなりの老境に入っておられたが、相当の距離を歩いて毎日のように調査現場を訪ねられた。松瀬老人の希望で調査参加者全員が寄せ書きをした。今は佐世保市教育委員会が保管するそのノートに、芹沢さんは調査状況を図示解説したうえで「この土器に細石核、細石刃が伴出するかどうか、今後決定すべき重要な課題である」と書きのこしている。

 発掘後には放射性炭素による年代測定で、上層では12.000年、下層では13.000年ばかり前という結果もでて、九州での縄文草創期と旧石器終末の文化としては、最も早くに明らかなった資料となる。

 考古館の古いケースの片隅の、見栄えのしない僅かな土器や石器も、こうした重い歴史を背負っている。

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