(190) 石田茂作先生と年賀状

岡山市松 最上稲荷の山門 横より見る
 「左の写真は何処の国?・・あれはまるでパゴダのようだが」・・・

「とんでもない、最上稲荷じゃないか」・・と貴方がもし答えられたら、貴方は初詣によく行かれる人・・・勿論この会話が通じるのは、岡山県南からせいぜい広島県東部の地域のことだろうが・・

 「最上稲荷」は、岡山市北区高松にある最上稲荷山妙教寺の事で、日本三大稲荷の一つとも称され(三大稲荷の一つは各地にかなり多いようだが)、近郷では初詣の人々が最も多いところのようである。この稲荷のすぐ近くに、昨年の大河ドラマで、また改めて注目された、秀吉水攻めの高松城址がある事も、岡山では周知されているだろう。

・・・と言う事で左の写真の場所がすぐ分かる人は、たびたび最上稲荷に参拝している倉敷市や岡山市近郷の人・・・・・だがもし全く始めてこのお稲荷さんに詣でた人であったら、この山門にちょっと驚いていたかも・・・

 パゴダ(丸屋根に尖頭の付く東南アジアの仏塔)風の建造物であるこの山門の両脇には、黄金に輝く堂々とした厳つい仁王像、しかもその背後には、直角に交わる通路を隔て、本殿を門の両側からキッ!と見ている二匹の銀狐がいる。その狐の口は、それぞれ阿(あ)と吽(うん)・・・

 他所の有名な稲荷社にあまり詣でた事はないが、赤鳥居がトレードマークで、確かお狐様が狛犬の代わりにいるような神社が普通だと思う。しかし最上稲荷はれっきとした寺である。あまりそれぞれの場合の状況は知らないが、稲荷が、寺だったり神社だったりするのも、明治初年の神仏分離政策の結果のようだ。

 ともかくこの仁王門建設の由来については、門内に説明文がある。それによると1950(昭和25)年、山火事で仁王門が焼失したことで、火災に強い材質で再建ということになった。その時、奈良国立博物館館長で、仏教考古学者として著名、後年には文化功労者ともなった石田茂作博士(1894−1977)に、再建の相談をされたようだ。この時の先生の発案に従って、山門は昭和33(1958)年に再建された、と説明には記されている。

 この1958年は、当考古館にとっては相当に忙しかった年だった。すでにこの「よもやまばなし」でも5回にわたり(9話83話84話85話145話)取り上げている倉敷市浅原安養寺の瓦経塚の発見から調査や、随庵古墳の調査(これも3話121話)などが、重なって行われた年であった。この中の瓦経塚調査で、稲荷の山門再建の関係者であった石田茂作先生と、直接のかかわりを持つことになったのである。

 この安養寺瓦経塚調査に際し、何分日本最初の発掘事例と言うことで、当時、仏教考古学の第一人者であった石田先生が調査指導者として来られたのである。しかし先生も仏教考古学の重鎮であっても、全く例のない粘土塊となった土中の瓦経塊は初めての事。

 場所は山中であり、現在のような重機利用も不可能な時代である。先生も発掘担当のわれわれと、最良の保存可能な発掘法を、時に珍説を交えながらも真剣に議論したのである。こうした中で、人間味豊かで広学な先生の人柄にも触れたのであった。

 たしかこの調査中だった筈だが、先生は最上稲荷の山門を見に行かれた。1958年の晩秋頃だっただろうか。山門は1958年建設、翌年落慶供養だったとあることから、先生はほぼ完成していた山門を見に行かれたのだと思う。

 実を言えば、当時あのパゴダ風の山門は、あまりにも周辺とは異質に思えたのか、陰では少々人気が良くなかったようだ。その時先生の言われていた事は、「山門の仁王像は、現代一流のアブストラクト彫刻家に制作してもらえば、100年先には、重要文化財になる・・・そう言ったのだがね」

 安養寺の調査以後、根気だけの長い整理、報告書作り等については、先のよもやまばなしに記してきたが、その間も何かの時、先生にばらばらの瓦経の経典を探す愚痴を言うと、「それは楽しみだろう」と言われてムッとしたようなこともあった。だが願文が見つかり、年号まで発見した時は、理屈抜きで確かに楽しかった。

 その後も先生との年賀状の往来は続いた。ある時から先生の年賀状には小さい木版と思われる五輪風の塔が捺されてくることがずっと続いた。万塔供養との事だった。面白い一言がそえられることもあった。

石田茂作先生の1972年年賀状
 今回は正月でもあり、以前はどなたからであれ、面白い年賀状を頂いた時には、保存していたので、先生の万塔年賀状も1枚くらいは残ってないかと探した。しかし万塔はなかった。だが思いがけない1枚がみつかった。

 それは1972年の年賀状だった。万塔供養は成就したのか、塔のスタンプはなかった。先生の亡くなられるより5年前だから、77歳の頃だろうか。安養寺瓦経塚発掘からも15年近い歳月がたっていた。

 私どものいい加減さで、先生の年賀状保存状況は悪いが、左に写真を示した。文面の「明けまして 目でたくもあり 目でたくもなし」は小林一茶にあやかったとしても、上部の木版らしい物はすべて「目」であろうか?・・中央の大きな目の中には「无(無)有」とある。

 文面は、老年の日々を生きる心境が、普通に書かれているが、絵の方は、みな「目」が違う、まるで悟った中のいたずら心か・・・多くの仏の姿や教理を知った先生のアブストラクト(抽象)か・・先生は最上稲荷の仁王にどのような姿を描いていたのだろうか。

 最上稲荷の仁王門は、製作時にはこの門をくぐった多くの参拝客に如何様に思われていたかは知らないが、建立から50年後の2009年には、国の登録有形文化財に指定され、昨年の2014年には傷みが修復され、仁王も狐も、金・銀が鮮やかである。

 先生の目玉を見ていたら、もし最上稲荷の仁王や狐が抽象的な彫像であったなら、現代のような妖怪ブームの中では、その元祖として特別の尊崇を受けていたかもなど・・・古い年賀状からの初夢か・・・


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