(195) 建仁塔

 考古館で、古い資料を検討していて、変色した古新聞で包んだものが三包み出てきた。どれにも棒状のものが入っているらしい。中を開けてみるとすべて仮表装の軸であった。中の一本には、消えかけているが昭和25年10月30日に出来あがったと書いてある。その翌々日、昭和25(1950)年11月1日は、当倉敷考古館が開館した日である。

 開館に関係した軸類かとも思われるが、三つの包みのうち四本入っている軸には「建仁塔」の一・二・三・四とあり、三本のものには夫々「保月」、一本のものは「立石」と書いてある。

 この文字から軸の中身は想像がつく。建仁は倉敷市児島下之町の石造宝塔に刻まれた年号、保月と立石は高梁市上有漢(旧上房郡有漢町)の鎌倉後期の有名な石造美術品の所在地である。それらの拓本を軸装したものと推察できる。

 軸を開いてみるとその通りであった。それらを包んでいた古新聞は、昭和26年12月5日と7・8日の日付である。昭和25年10月30日出来あがりの軸物が一年余り後の新聞に包まれて収められ、63年余りの時が過ぎたことになる。

 古新聞の記事を見ると、調印されたサンフランシスコ講和条約が米国議会で批准されるかどうかという内容も見える。太平洋戦争勃発からちょうど10年のころである。随分永く拓本の軸物は眠っていたことになる。

現状の建仁塔と 『吉備考古』80号に載る大本氏の建仁塔図
左から拓本図の軸、次は南面の2仏、多宝・釈迦か、次は北面の仏、不動か、次は東面の仏、阿弥陀か、この横に建仁銘


 この拓本については、微かな記憶が蘇る。考古館の開館のころのことである。其の頃、高校3年生から大学1年だったこの欄の筆者は、開館当初の考古館を幾度か見学していた。開館間もない昭和26(1951)年6月大原美術館マチス展見学時、8月福田貝塚・11月羽島貝塚調査の時などである。  当時の考古館は土蔵造りの倉一棟のみ。現在の受付の上の中二階には、古代寺院址出土瓦など歴史時代資料、三階に縄文・弥生・古墳時代の資料が展示されていた。中二階は、三階へ上る階段があって、現在より少し狭かった。その部屋の壁面に縦長の拓本が架かっていた。

 しかし、その拓本の内容までは覚えていない。其の頃は、縄文や弥生のことに関心が向いて中世石造などにはあまり興味がなかったためである。それが今、眼にしている拓本に違いない。久し振りにあらわれた拓本は、開館時の一年間ばかり、常設展示の資料として活躍していたものであった。

 そのうちの四本の軸になっていた建仁塔は、児島下之町の平地にある王子権現という小社の社地にある。建立の時期が判っている中世の石造物などは、1930年に岡山県が発行した永山卯三郎『岡山県金石史』に記載され、関係者には周知されているが、この石塔はその中には見当たらない。児島味野の郷土史家、故多和和彦氏が昭和24(1949)年に、建仁三(1203)年の刻字を発見。石造宝塔では岡山県最古である。氏は驚喜して、吉備考古学会名誉会長の故大本琢寿氏らに応援を求め、銘文全体の解明と塔身に薄肉彫されている仏像の像容などを検討したのである。

 その成果は、翌年8月刊行の「吉備考古」80号に大本・多和両氏の連名で発表された。倉敷考古館開館の僅か三月前のことであった。その後にこの宝塔は、石造美術研究の泰斗故川勝政太郎博士の研究も加わり、岡山県重要文化財に指定される。

 「建仁塔」は花崗岩製、基礎は自然石風に見えその上に角張った細長い塔身がのる。塔身の上部に低いながら首部を作っている。塔身の四面に肉彫された仏像は、南を正面として多宝・釈迦の二仏並座、西は釈迦如来かとされる座像、北に不動明王立像、東に阿弥陀如来座像を配し、どの像にも蓮座を刻む。その様式は藤原時代に近いとされ、阿弥陀像は特に優れているといわれる。

 笠は反りがゆるく、屋根も軒下の端もふくらんだ形で古調をみせる。塔身の下端から笠の上の相輪まで含めると高さ2、5メートル、基礎は土中に埋る部分が多く現在地上にみえる部分はやく10センチである。

 塔身の四つの角には面取りがみられ、それぞれに一行の銘文が刻まれている。多宝・釈迦二座像の右角から始まり、まず、総願寺塔を一切衆生の現世安穏、後生善所を願い建立とあり、続いて左回りに仏教経典からとった四句の韻文を釈迦如来像と不動明王像の右角に、最後の阿弥陀座像の右角に造立年月日を記す。

 「建仁塔」は、刻字の寺名から「総願寺宝塔」、所在地から「王子権現宝塔」とも呼ばれ、藤戸寺五重石塔、五流尊龍院宝塔、福林池西の熊野道地蔵石仏など児島を横断して点在する鎌倉期の優品石造の中で最古の遺品となった。

 その発見と学界発表を主導した大本琢寿氏は、考古館開館時の展示に当たった吉備考古学会メンバーのなか、主に歴史時代を担当された。吉備考古80号への「建仁塔」執筆と開館時の展示構想は同時進行していたのであろう。その拓本が展示に登場したのは自然の成り行きだったと思われる。  

 こうした研究、採拓、当館の開館展示に関係された方々は、すべて数十年前に物故された。65年の歳月を経て、再び現れた拓本の仏たちは、その方々を顕彰し、供養する姿か。

 同時に展示に加わっていた、高梁市上有漢の「保月」と「立石」の拓本については、続く次話でふれる。

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