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(196) 拓本と大本先生

大本琢寿氏作、安養寺第一瓦経塚出土。如意輪観音像絵瓦の木版画
 前の195話「建仁塔」拓本を考古館へ将来された吉備考古学会の故大本琢寿名誉会長(1884〜1972)は、元六高のドイツ語教授、その後には岡山医専でも教えられた。戦後には、考古学の大本先生であった。「私はニ度胃癌になった」(国立学校をニ度依願退職)などと冗談をいわれる穏やかな老紳士との印象が残る。

 写真を得意とされ、集会や発掘現場でジャバラカメラを組立てガラス板乾板の記念写真を撮っておられた。木版画は玄人並で、雑誌『吉備考古』の表紙を飾り、和紙の手摺り折込み図版を加え、無味乾燥になりがちな雑誌に潤いを与えられた。特に『吉備考古』81・82合併号(1951年3月)に載せられた浅原の安養寺第一瓦経塚出土の、如意輪観音を描いた絵瓦の木版画などは、心に残るものだった(左写真参照)。

 岡山の門田にお住まいだったが、先生のもう一つの顔は上房郡有漢町(現高梁市)上有漢の臍帯寺(ほそんじ)住職だった。有漢は、高梁川と旭川にはさまれた備中準平原上にあり、高梁の町から少し北で高梁川へ東北から注ぐ支流有漢川を北上した最上流が上有漢である。その北西部、真庭市境の四峰山から南に下がった谷沿いに臍帯寺はある。寺からは4kmあまり南東に離れたところに同寺が管理・所有する保月と立石の石造塔が、山道の両側に近接して立っている。

 その石造塔は古くから知られていたが、昭和10(1935)年、故川勝政太郎博士が調査、全国的にも数少ない優品だとされて、昭和13年には国指定重要美術品となる。戦後の文化財保護法では重要文化財となった。石材は、この地に産する良質な花崗岩が用いられている。

 保月に立つのは石幢である。これは、寺院の内陣などを飾る幢(どう・はた)に由来したとされる石造供養塔の一種で、保月のものは、六角柱形の細長い幢身の上に六角の笠をのせる。その高さが264cmあり、背が高い。笠の上には請花と宝珠があったはずだが、それは失われ、代わりに小形五輪塔の水輪から上を置いている(左上段左端写真)。幢身の六面には、それぞれ仏像を薄肉彫し、その下に銘文や讃文を刻んでいる。像は一つの面に七仏、他の五面には各一仏を彫る(左上段中央拓影)。
上段 保月石幢の写真と拓本
 右端は井野行恒銘
下段 立石の写真と拓本
 右端は嘉元三年銘

 立石のものは、板碑とよばれる頭を山形に作った板状の石造供養塔である。高さ315、幅43、厚さ29cmという長大なものである(写真下段左端写真)。薬師、阿弥陀、地蔵の三尊を縦並びに薄肉彫した(拓影下段中央拓影))下に銘文を刻んでいる。

  保月石幢の銘文には嘉元四(1306)年、立石板碑には嘉元三(1305)年が刻まれており、両者が鎌倉後期の相続く二年の間に建立されたことが判る。別に製作者の名が刻まれていて、どちらも石大工井野行恒とある。その名は、平家が焼き打ちした奈良東大寺を鎌倉時代初めに再建した時、中国の宋から渡来し石大工として活躍したことで有名な伊行末の系譜の伊派と呼ばれている有力な石大工の名であった。

  井野行恒は、伊行恒を「いのゆきつね」と訓読みしたときの名であるとされる。そのような近畿地方で一流の仕事をした大和の石大工によって、地方の石造美術としては稀にみる優品が建立されたのである。それは、備中準平原上のこの地の有力者が優れた石大工を招聘出来るような力量をもっていたことに由来したのである。

 この二基の石造塔の拓本が、上有漢臍帯寺ゆかりの大本先生によって、設立時の考古館へもたらされていたわけである。立石の板碑は一本の軸に、保月の六角石幢は隣り合う二面をそれぞれ一本にまとめ、合計三本の軸になっていた。

 これが当館開館以来所蔵されてきた、県下でも有数の保月、立石の石造塔拓本の由来だがが、両碑の石大工井野行恒に関係して大本先生の業績をもう一件紹介しておこう。それは、上有漢から西南へ30kmほど離れた同じ備中の川上郡平川村(現高梁市)笠神の「文字岩」のこと。広島県東北部から流れ下る高梁川の支流、成羽川川床の十行もの刻字を残す巨岩である。

  成羽の町から西やや北へ14kmばかり上流、今は昭和43(1968)年完成の新成羽川ダム堰提の下手で、同ダム第二堰提による田原ダムの水面下に沈んだが、以前は山間を深く刻んで流れる川底の岩であった。その所在は江戸時代から知られ、徳治二(1307)年の文字は判っていたが、その他の多くの文字は解読されずにいた。それが昭和十年代中ころ、1940年頃に大本先生の苦心の調査で全文ほとんどがが解明された。

  それにより、巨岩塁々とした成羽川水路の難所を開き広島県東部から成羽川−高梁川への水運が開通した記念の碑文と判ったのである。鎌倉時代後期の交通史の貴重な資料として昭和16年2月21日付けで国指定史蹟となる。

  文中には「石切大工伊行経」の文字が見え、有漢の石塔の「井野行恒」と同一の石大工と推定されている。工事完成の徳治二年は有漢保月塔の嘉元四年の翌年にあたる。笠神の瀬開削の大勧進は成羽の僧であったことも碑文から読み取られ、それが奈良西大寺ゆかりの僧であることから大和の有能な石大工を招けた理由との考察も進められた。

  史蹟指定の前後に、大本先生は、雑誌「吉備考古」、「史迹と美術」に報告され、JOKK岡山放送局のラジオ放送にも出演して話をされた。先生の研究成果で世に出た笠神の文字岩は、現在ダムの湖面下に隠れ、レプリカがひっそりと湖岸に置いてある。いまこの岡山近郷でも、考古学や歴史学に興味を持つ人々が、大本先生の業績をどれほど知っているだろうか。

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