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(197) 20年の歳月―金蔵山古墳と石寨(せきさい)山遺跡

 金蔵山古墳は、あらためて説明するまでも無く、岡山市の中心的市街地の東にある操山山塊上にある、165mに及ぶ、大前方後円墳。当館で62年も前に調査し、出土品は当館の主要な展示品でもある。この「よもやまばなし」でもたびたび取り上げているので、索引から見ていただける。

 この古墳が、国の史跡指定の事もあり、昨(2014)年度末、岡山市によって、不明だった西側造出し部分の調査が行われた。ここから囲形埴輪や、柵形埴輪が出土し、注目を集めたことは、当時の新聞紙上でも報道されている。その状況を見学に行った際、この20年ばかりの、古墳周辺の道や樹相の変化に、古墳を調査した60余年昔の記憶が、結びつかないのに困惑した。

金蔵山古墳で、2014年度調査で、西側造出し部で発見の、囲い形埴輪などの出土状況
  20年ばかり前まではまだアカマツの山であり、その間の山道をたどって登っていたが、今は全て雑木。道は車が上る舗装が、古墳周辺までつづいている。自宅が近いこともあって、金蔵山への道には、異なるルートからも、20年ばかり前までは、かなり登ってはいたが、松喰い虫で倒木となった木々で、不明となった道もある。

  この金蔵山古墳に訪れてない、20年ばかりの歳月の長さを思った時、これも実は35年は前になる、1979(昭和54)年11月の中国旅行での事を思い出した。それは中国の雲南省昆明でのことであった。・・・・「石寨山遺跡には、調査後20年間全く訪れてないので・・・・」と案内を躊躇された中国の先生の言葉だった。

  当時の中国旅行は現在と全く違い、まだ観光で訪れることはできない国だった。互いの交流は、中国からの招請という形で行われていた時期である。このような時、博物館関係の研究者と云う事での、中国行きの話があり、それに加わって、20人ばかりの団体で、博物館や遺跡を訪れたのである。訪れた各地の博物館の人々とは、話し合いの場を持ったのである。

  石寨山遺跡と云うのは昆明市の南40㎞ばかりにあり、近接してある大きな湖、滇池(てんち)の東岸に面してある漢代の墓地群で、当時このあたりを支配していた滇王(てんおう)一族の墓とされた遺跡。日本ではこの遺跡を知る人は多いはず、というのも、九州志賀の島出土の「漢委奴国王」の金印と極めて似た大きさと蛇鈕をもつ金印「滇王之印」が、出土したからである。

  この石寨山遺跡は1955~60年に発見調査され、50基からの土壙墓が出土。その6号墓から金印は発見されたが、この墓は他の遺物から見て、漢代中頃とされる。他にも、この遺跡からは漢代前・中・後期を通じての多量の遺物、銅製品の貯貝器とか銅鼓・銅俑・銅製農具、鉄製剣や斧、鏡、半両銭・五銖銭も出土している。

(左上)1979年11月18日夕刻近い石寨山遠景。 西の滇池方向より
(右上)同日石寨山上より滇池を見る。 石寨山は石灰岩の小丘
(左下)遺跡地に立つ。 左より秋山氏・趙先生・通訳沈氏・地元教師
     筆者撮影
(右下)滇池につながれた鵜飼舟 タクシー窓より撮影


 中国旅行がまだ自由でない時期、昆明まで行くのであれば、ぜひこの遺跡に行きたい、との思いで、石寨山に関する史料のコピーを用意していた。しかし実際に訪れてみると、この地方の主な資料を所蔵する雲南博物館さえ、外人客にはまだ未公開ということだった。

 だがどうしても行きたいと主張した数人、もちろん筆者も含めての事だが、現地で、全行程同行の通訳でもあり、権限を持った世話役であった方に大変な無理を言って、博物館の方々と交渉してもらい、かつて遺跡を調査された先生においでいただいたのである。

  今考えれば、全く申し訳ないごり押しだったが、その時の先生が、「20年訪れてないので・・・・道がよくわからないが・・・」とちょっと躊躇されたのだった。当時の筆者には、あの著名遺跡の調査者が、遺跡への道が不安と云うのが、ちょっと理解できなかったのだが、近年の金蔵山古墳を見て、あの時の先生の気持ちが分かった思いだった。

 ともかくこの時ご案内いただいた方は、筆者がコピーを持参した報文に名前を記されていた趙学謙先生だった。そのこともあり早々にうちとけることもできて、石寨山へと云う事になったのだが、他の人たちとは別行動なので、タクシーを頼んだ。だがどうしても1台しか用意できない。最後まで行くことにこだわったのが、当時東京国立博物館の西田守夫氏と、富山大学秋山進午氏と、厚かましながら筆者だった。

 定員は運転手共で5名ということ、通訳の沈氏は責任上ぜひ行かねばならないし、趙先生のほかは2人しか乗れない。仕方なく3人でクジ引きをした。いい年をした大の大人のクジ引き風景、雲南博物館の人たちも笑ってみていた。・・・・・・・貧乏くじを引いたのは、西田氏だった。それでも西田氏は、今まで外国人には未公開とされていた博物館を、ゆっくり見ることが許され、快く引かれた。

  午後かなり遅くなっての出発、明るいうちにと案内の趙先生も気を使っておられたようだった。現地近くなったとき、自転車で行く男性を呼びとめて何か話されていたが、自転車はそのまま、その男性をつれて車に乗り込んだ。定員オーバーを承知の上。実はこの人物、石寨村の住人で、現在は学校の教師だが、子供の頃発掘があって、毎日のように見学に行っていたとのこと。まったくの偶然ながら、最も良い現地までの案内者だったのである。

  現地は低丘陵上、滇池もみわたせ、広い耕地も眼下に広がる。周辺の状況は地面がむきだしの丘陵で白い大形の石も多く、現代の墓である土饅頭が点在するだけであった。しかし夕暮れ近い滇池周辺の風景は、四手網があり、岸には船がつながれ、鵜が並んでとまるのも目にすることができ・・・・この広大な地に2000年以上も以前に滇国の日々があったことが、静かな夕景の中に思い描かれた。

  現地に立ってはからずも知ったことは、私たちが、この著名遺跡が知られてから、遺跡を訪れた最初の外国人だったと云う事だった。多くの人の善意と幸運でこうした経験のできたことは、長い生涯の中で、この時だけかもしれない。

近くの人家の壁、白いのはすべて貝殻 趙先生(左)と沈氏、偶然近所のかわいい子が写っていた。
  帰りに近くの人家の中を通った時、家の土壁には、多くの貝殻とともに、土器片などが塗り込められていた。長い人々の営みがそこに込められていることを思いながら、暗くなっていく道を歩いたことは、この間であったような気もする。しかし20年どころではない、35年も昔の話、変化の急速な中国でのこと、現在はどのようになっているのだろうか。・・・・・あの時の一期一会の人々も・・・・・




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