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(199) 鞏県(きょうけん)石窟の仏たちと黄土地帯

鞏県石窟の仏たち
 「あゝ この仏たちの顔だった。」・・・これが中国の鞏県石窟で、左写真の石仏達に対面した時の、第一印象だった。

  これを思い出させたのは、1979年11月撮影の、色あせてカビもあちこち見られるようなスライドフイルムである。前々回のこの欄で、当時の石寨山遺跡探訪を取り上げたが、その時のフイルムを検索中でのことである。

 この石窟の主な仏たちは、北魏様式と云われるものであろうが、清楚で厳しさも見られるような面立ちの中に、優しさも持った顔立ちだった。この顔には多少のおもい入れもあったのだ。

 倉敷考古館では1950年開館の後、1957年に1棟増築して展示面積を増やした。その時以後1958−1970年の12年にも及ぶ間、増築した1棟や入口正面には、現在大原美術館の東洋館に展示されている、中国関係の資料を展示していたのである。決して短い期間ではなかったので、私たちは中国の資料に対して門外漢ではあっても、一応すべての展示品には覚えもあり、解説を付けてもいた。

 その中にはすでに2008年、この「よもやまばなし」20話で取り上げた大形の三尊佛などもあったが、石像物の中には洛陽市郊外にある、著名な竜門石窟の仏頭かとされている、唐代のふくよかな頬を持つ整った顔、まさに「美男」ともいえる大形の仏頭もあった。これも竜門石窟かとされた北魏時代の仏頭は、清楚で美しいながらやや強張った表情に思えた。

  これらの中に鞏県石窟由来だといわれていた、小さい砂岩製の頭部があった。清楚な面立ちで、竜門の北魏の仏に良く似てはいるが、頬にやや膨らみもあって、笑いを含むようなやさしさのにじむものだった。この小石像の顔は私的な感情で申しわけないが、展示する中国の仏たちの中では、最も好きなものだったのだ。鞏県石窟の仏にはじめて面会した時、そこにその顔の仲間がいたのだ。

  鞏県は、唐代の都もあった洛陽市と、河南省の省都鄭州との間にあり、古くより栄えた地で、520年頃から石窟寺院が造られ、北魏時代から唐代にも続くものだったようである。この欄で先回話題としたバーミヤン石窟記述のとき、三大仏教石窟としてバーミヤンの他に、中国の敦煌石窟や雲崗石窟の名前を挙げたが、竜門石窟も同様に大規模で著名な石窟である。これらに比べると鞏県石窟の規模は小さいものである。

1979年頃の鞏県石窟入り口
 実はこの1979年の訪中の時も、鞏県を訪れる前に洛陽市に行き、竜門石窟も見学していた。大規模な石窟と大小の無数ともいえる仏像やその他の彫像に、さすがと圧倒される思いを強めていたのである。また幸いにも、その後、敦煌も雲崗も、そのほか数箇所の石窟寺院を訪れる機会もあったが、それはそれぞれに感動するものであったが、著名遺跡という感懐ばかりが強く残る。すでに観光地であったからであろうか。

  鞏県石窟では石窟見学までに、ちょっとした経緯もあった。このあたりの平地に続く山々はまさに黄土である。黄土層が川や谷筋で開析され崖面が平地に接するあたり、村が点在し、この地域の特性でもあった横穴住居も時に見られた。

 石窟に近接してあった仏教寺院は、当時小学校に転用されていた。この学校の裏手も黄土の崖面に近かった。この小学校で、石窟を管理していたのかどうか、そのあたりの事はよくわからなかったが、私たちは、学校内でかなりな時間を待ったような気がする。

  小さい小学生が、大きな容器に水を満たし、二つを天秤棒で上手にかついで運んでいくのを眺めてもいた。同行者の中には、すごく感心していた人もいたが、当時の日本でもつい近年まで田舎では、子供でも天秤棒で水など運ぶことが決して珍しいことでなかったことを知らないようだった。

  また多くの人々・・聞くところでは子供たちの保護者だとのことだが、学校のすぐ裏山の黄土の崖で、共同作業で何か掘っているようだった。何事かと尋ねると、教員室を皆で造っているのだとか・・・黄土に横穴の部屋を制作中だったのである。日本で戦後バラック教室を、急きょ増設していたのと同じだろう。

  しばらくして校長室に通された。入口に厚手の布が下げられていて、その先は黄土に掘り込まれた横穴のかなり広い部屋であった。電燈が外から長いコードで室内に引かれていた。他には机と腰かけだけだったが、ここも子供たちの親が造ったものだったのか。石窟拝見までの見学だった。

(上)石窟間近の黄土層崖面、すそには人家点在
(下)石窟裏山よりみる。黄土の丘と平原。先方の塔状建造物はレンガ積らしい
 石窟の入口は、今は綺麗に整備されているようだが、当時は右上の写真のように簡単な木の屋根と柵だけだった。石窟内で写真を撮る制限も無かったと思う。現在訪れる人にとってはうらやむことかもしれないが、残念なことには、当方がこの石窟の示す特性や重要な部分の知識が無かったことで、意味ある写真の残ってないことを、残念に思っている。だが何か他の石窟寺院を訪れた時と違う懐かしさを今も残すのは、多少とも土地の人々との身近さを感じたからだろうか。

 学校を山上から眺めた覚えはあったが、石窟からどうして裏山に上がっていたのか、そのところは思いだせない。厚い黄土層の広がりの中に石窟を形成した砂岩層が、どうしたかたちで存在していたのかも、全く記憶にないのだが、山上から見た周辺地域の広大さと黄土層の続く状況は印象に残った。仏たちの世界は、今生きる人々と共にそうした中にあったのだった。現在その風景は、どれだけ失われているのか続いているのか・・・・黄砂の飛来やPM2.5の濃度ニュースだけしかないが・・



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