(20) 入口床のコンクリート補修痕

(これは一体なに?)

 考古館に入ってこられた方が、たいへん注意深い人であっても、足元のコンクリートの床に2×1mばかりの長方形の補修痕があるのには気付かれないと思う。目立たないように補修するのが補修だから、気付かないのが当然だが、この補修痕には、考古館としては一寸した歴史があった。

 今回の左方の写真は何に見えますか。この布のテープで巻かれた、まるでミイラか、透明人間を思わすような異様な姿、これこそ床に残された補修痕上に立つていた、かつての本体。じつは現在、大原美術館の東洋館内に展示されている、中国北魏時代の石造一光三尊佛立像(右下写真)、国指定の重要文化財である。
 1950年に開館した考古館は、1958年に増築して展示室を倍増した際、現在、大原美術館の東洋館に展示されている中国関係の資料を、ほぼ全て展示した。今ではそれを記憶する人もほとんどいないだろうが、展示は1958年から1970年に及んでいる。

 この石佛についての解説は、大原美術館のホームペイジを参照されたいが、光背を失った現高でも2.5m以上ある三尊像は、かつては5m近い巨像だったようだ。中国の河南省新郷県魯堡村の百官寺にあった佛像だが、村の学校修理費として売却するという、校長の証明書が付いていると聞く。

 これだけの石の巨像を運び出すのは大変だったのであろう。三尊の仏像は縦にそれぞれが分割され、後に接着されている。中央の本尊は首が折れており、中心に心棒を入れ上に載せるだけで、接着されていない。光背も意図的に欠かれているのだろう。

 左上の写真は、考古館の入口に据え付けられていたこの立像を、大原美術館へ運び出す時の梱包された姿である。考古館と美術館の間の僅かな距離とはいえ,容量も重量も大きいために、考古館では入口の天井、つまり倉の二階床板の一部を外し、梁を利用して三叉を組み、吊り上げ、入口には木のレールを敷き、横倒しにして引き出したのである。左下の写真はやっと考古館の入口から本体が出た時の写真である。

考古館から出て行く三尊佛

 作業はこうした仕事に熟練した人たちで、狭いところで重い本体を、どこへも当てず、実に上手に運び出したが、これが中国の故郷から運び出されたときは、どのような人たちの手を経たのだろうか。この仏像を心から信仰していた人もいたのでは・・・・考古館でこの作業に当たった親方が、後で仏像の価値を聞いて、もし先に聞いていたら、足が震えて、仏像の上に上がった作業など出来なかっただろう、と言ったとか。

中国北魏時代一光三尊佛

 考古学は、土中に残された僅かな痕跡などで、上部の構造や、かつての姿を推測しなければならないことも多い。私たちが後世、考古館の入口床の痕跡からだけで、ここに一光三尊佛が置かれていた事を推測することが出来るだろうか。せめて今大原美術館に展示されている中国の資料が、考古館に展示されていたことがある、ということを知っていなければ不可能だろう。  考古学の研究も、限界の空恐ろしさを思う。


1970年10月4日(日)曇後雨
 ・・午前中三尊佛の裏面の拓本を今一度とる。夕刻より搬出の準備・・・藤木・藤原組の10人余り、夜、美術館の藤田館長と松尾両氏も来館。仏像コンクリートの床から台座ごと外される。
同年10月5日(月)晴 休館日
 昨日と変わって今日はよい天気、8時半から作業。館へは間壁(葭)と細川さんが残り、間壁(忠)は午前中、笠岡市教委へ北川走出の祭祀土師器を返却に行く。仏像の搬出は、大変手際よく、午前中の11時頃には済むが、台やその他の片付けで、午後5時前まで。後の展示のため、3階の陶棺1つ大きい方だけ下ろす。・・・


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