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(200) 鞏県(きょうけん)北宋時代の王陵群と銭

鞏県の宿近くでの夕景・北宋代王陵に立つ石像群
 1979年訪中時の撮影フイルムを眺め返した時、鞏県では石窟の仏たちだけでなく、もっと多くのおもいがあったことを、改めて思い起こしたのである。訪中以前から鞏県石窟には一応の関心があったのだが、実は仏たちに逢う前にも、思いもかけず強く印象に残った風景があったのだった。

  それは石窟を訪れる前日のことである。夕刻近く鞏県の宿に着いた時、石窟の事しか頭になかった者の眼前に広がっていたのは、むしろ荒涼としたかにも見える広い平地の中に、まるで限りなく続くように見えた、人物や動物などの石像の列・・・その先に小山の影が・・小像にしか見えない列像達だが、夕日を背後から受けたその姿は、広い大地に長い影を引いていた・・・感動の風景だった。宿は北宋の王陵群に近接していたのである。(ここに挙げた写真は、夕・朝景とも、色褪せて画面にカビも見えるスライドによっているため、当時の感動の風景には程遠いのだが)

  翌朝、11月中旬というのに、ずいぶんと寒かった。−4℃だったといっていた同行者もいた。宿では親切に、中国風の綿入オーバーを貸してくれた。それを着込んで僅かな時間、周辺の北宋王陵周辺を掠めたに過ぎない見学をしたのだった。現在ではこの王陵群は整備されて公園になっているようだが、私たち一行が目にしたのは35年も昔の姿だった。しかし遮るもののないような広大な大地の中の、しかもすぐ近くには、今の生活が接していた、あの頃の姿が懐かしい。

翌朝 短時間で北宋王陵群周辺を見る。
王墓群の一角に送電設備らしいものもある。



 

 今となって改めて思うことは、素通りに近かった北宋時代の王陵群と周辺の大規模な石像群・・・西暦960年頃から1130年頃に及ぶ、北宋時代の王陵群とのこと・・・・この時代に作られた銅銭が、実は日本での中世、本格的な通貨として鎌倉から室町時代の日々の経済活動の担い手だったことを、今ここを訪れている日本人がどれだけ知っているだろうか。

  実は筆者自身も当時は、王陵の現場にいて,これらの王が鋳造した膨大な中国銭が、わが国に流通していたことには思い及ばなかった。わが国中世遺跡出土銭の主なものが中国銭であることは知っていたが。しかし、その後各地の開発に伴って発見されてきた膨大な数の埋蔵銭は、枚挙にいとまがないといえる量であろう。こうした実態はまだ理解の外だった。その中でもいかに北宋銭が多いかと云う事・・・もちろんその他の多種な中国銭を含んではいるが・・・・

  身近なところで見ても、1966年と1978年の2度にわたって、考古館参加で調査をした倉敷市広江・浜遺跡では、縄文時代から各時期にわたる遺跡が発見されており、『倉敷考古館研究集報 14号』(1979)で報告している。本欄でもこの遺跡については数話も取り上げているが(索引参照)、この遺跡の中世生活面と思われるところから、中国銭が13枚出土している。その中で「開元通宝」銭2枚の外は、すべて北宋銭だった(右下拓本参照)。

  これも当館が調査した、戦国末頃から江戸中期頃までの50余基の墳墓があった倉敷市城が端遺跡では、墳墓に伴った銭が、119枚発見された。その内91枚は、江戸時代前期の寛永時代以後、江戸時代を通じて鋳造された「寛永通宝」だったが、その他は中国銭。「開元通宝」3枚のほか、北宋銭が22枚、南宋銭1枚、明銭2枚であった。この墓の中では最も新しい江戸中期の墓にも、中国銭をともなったものもあった。この中でも北宋銭の多さが目立つ。一文銭は「寛永通宝」が普通となったわが国だったが、中国銭も一応は流通していたといえる。

  また倉敷市内でも庄地区、王墓山塊の一角にある楯築遺跡の東裾あたりで、1万枚からの中国銭が固まって発見されている。倉敷市の埋文センターで保管されているが、100文くらいずつが1連で、それが凝結しているので、全体の内容はわかってないが、これとても北宋銭が多いものであろう。こうした大量の埋蔵銭は決して珍しいものではない。

 近いところで似たような例では、兵庫県加古郡稲美町でも6000枚ばかりの銭が、固まって発見されている。この場合も100文くらいが一連だったとのこと(地元郷土資料館による)。その中での1割足らずの内容だけだが、開元通宝が8%以上、北宋銭は73%ばかり、南宋銭は1%未満、明銭12%、破銭・不明銭が6%ほど、という状況のようだ。

(上)倉敷市広江・浜出土中国銭・
最上段2枚以外は北宋銭
(下)鞏県北宋王陵の石人像
 「開元通宝」は初鋳は唐初ではあるが、その後も長く鋳造が続くので、日本での埋蔵銭中で必ずと言ってよいほど含まれているもので、必ずしもその銭が唐時代の物とは言えない。一方北宋代の銭には数多くの名前の違う銭が、180年ばかりの期間に40数種もが造られていたようだ。種類によっては、何十万貫もの量が鋳造されていたようだ。

 わがくにでは平安時代末、平清盛の活躍したころから大量の通貨を必要にする経済社会になったのであろう。奈良時代中国文化に習って、皇朝十二銭を鋳造した政府だったが、結局は日常生活の通貨にはならず、銭の鋳造は中止されてしまっていた。そのため経済活動が盛んになった時には、通貨はなくすべて中国通貨にたよることになってしまったといえよう。

  大量に作られていた北宋銭は、わが国の貿易活動では重要な輸入品であり、関係者に大きな利益をもたらすものだったのだろう。わが国ではこの銭が鎌倉期から室町期も中心的な日常生活の銭になってしまったといえる。後には、港として栄えた堺などでは、中国銭の模造品までが鋳造されていたようだし、不明品となる様な私鋳銭も出回ったようである。

  いずれにしても鞏県であの多くの石像が飾られた墓の主の時代の銭が、はるか海を越えた日本の通貨となって、我々が調査する遺跡の遺物でもあることは、中国と我が国の長い歴史の関わりを忘れさせない実証であろう。ただ中国の歴史には素人である者にとって、北宋と云う国が、なぜ数年ごとには新銭を鋳造しなければならなかったのか?・・・・唐時代の「開元通宝」は長く鋳造されているのに。北宋時代に、名前を変えて続けて大量に鋳造されていた銭には、特に、大小や質や外形に差があるようでもない。

  北宋時代は武力的には弱かったという。大量の新銭製造が国力の基本に何か関わっていたのか・・・・鞏県の数多い石像に何も聞かなかったことが心残りであるが・・・・だがおそらく一見の客には何も答えてくれなかっただろう。

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