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(202) 両宮山古墳の謎

 先回は、岡山県南部を上空より見た古い航空写真の中で、目立つ古墳であった両宮山古墳や、その周辺一帯の遺跡について少し触れた。特に両宮山古墳は、今回も改めて上空からの写真を載せたように、今も満々と水を湛えた周濠をもつ大前方後円墳で、吉備地方では、造山・作山の両大古墳に次ぐ、第三位の古墳であるが、周辺が周濠で区切られているため、特に上空からの眺めは立派だった。

 両宮山古墳は、『岡山県史 18巻・考古資料』(1986年)では航空測量図も添えられ、墳丘規模だけで全長は192mとされる。近年では前方部前面の周濠内墳端観察などから(赤磐市教委の調査報告・2005年)200mを越すと考えられた。いずれにしても、こうした規模の古墳は、周辺の他県であれば最大の古墳と言えよう。

  たとえば東の兵庫県は、淡路島を眼下に見る、まるで瀬戸内海交通の海の関所かと思うような位置に築かれている五色塚古墳が、兵庫県で最大規模であるが、これがほぼ両宮山古墳と同規模で198mとか。西の広島県で最大の前方後円墳とされる三ッ城古墳も90mに満たぬもの。海を越した四国でも、最大といわれる古墳が香川県の富田茶臼山古墳でこれも140mばかり。山陰地方でも最大の古墳は、鳥取県の北山古墳で110mのようである。
(上)両宮山古墳を北西上空より見る(1969年頃)
(下)赤磐市教育委員会発行(2011年5月)、遺跡で現在も配布されているパンフレット『両宮山古墳』による。
  両宮山古墳はこうした立派な外見と規模を持ちながら、以前から不思議な謎が注目されていた。周辺にあるはるかに規模の小さい古墳では、古くから埴輪や葺石の存在が知られていた。ところが両宮山古墳では、墳丘に木が茂っているとはいえ、自由に立ち入ることもでき、周辺観察も出来るのだが、誰かが埴輪や葺石を見つけたと言う話がなかったのである。これが謎であった。この時期のこの規模の古墳としては稀有のことであろう。

  近年の周辺整備調査では、周濠が二重になっていたことも確認された。ますます大掛かりな外形だった古墳ということが分かったのであるが、やはりこの整備調査でも、埴輪も葺石も確認されなかったのである。

 この地域は古代の文献『古事記・日本書紀』の中で語られる時は「吉備前国」の中心的な一角で、「上道(かみつみち)」地域である。『記・紀』で吉備の上道臣が登場する話は、多少とも何かこの辺りの歴史の一端を反映したものであろうと思うのは、吉備の古代に興味を持つ者には、常識であろう。

  両宮山古墳と言えば、『日本書紀』の雄略紀にある吉備上道臣田狭と稚媛の反乱伝承を、思い出されるのが定番だろう。たとえその当否が相反する意見であっても・・・・先回で述べたように、地元ではこの物語は新作オペラにまでなっている。ともかく参考までに、雄略紀からそれに続いて記された、長期にわたった関係部分を、今一度、先入観なくそのままたどってみよう。

 雄略紀ではその元年に皇后を立て妃三人を入れたと記す。妃の中の一人として、上道臣の娘稚媛を挙げ、磐城皇子と星川皇子を産むとある。ただそこには別本として、彼女は(窪屋臣の娘)と言う事もあることを注記している。ところが雄略6年に、上道臣田狭が妻の稚媛を、世にこれ以上の美人はいないと自慢しているのを聞きつけた雄略が、夫田狭を朝鮮半島の任那の国司に任じ、その留守に稚媛を妃とした。稚媛には既に田狭の子、兄君・弟君がいたとある。

  だがここにも別本があり、(田狭の妻は、葛城襲津彦の子玉田宿禰の娘毛媛で、天皇は美人と聞いて、夫を殺して奪った)という話も記す。しかし本文では、任那に行った田狭は妻が天皇に奪われたと知って、わが国とは不和であった新羅にたすけをもとめた。そこで雄略天皇は、田狭の息子である弟君と、吉備海部直赤尾に新羅征伐を命じている。
 
  しかし天皇の側近の渡来人が、韓の国には自分より優れた者が多いのでそうした者を使った方がよいと助言したことで、天皇は弟君に、その渡来人と共に百済にも行き、技術者達を得るように命じた。百済で弟君は巧人を得て、田狭には構わずそのまま帰ろうとする。それを知った田狭は喜び、弟君に、国に帰ってもお前には災いがあるに違いないから、百済に残って自分と共に日本とは縁を切るように説得する。

  これを知った弟君の妻樟媛は謀反を憎み、夫の弟君を殺し、技術者を連れ海部直赤尾と共に帰国する。この時の渡来人技術者は、陶作り、鞍作り、画家、錦織、通訳などだった。しかし或本では(吉備臣弟君は百済から帰って、韓の技術者、衣服縫製人、肉食の調理人などを献上した)ともある。田狭と弟君の消息はそれだけである。

  その後雄略は、自分に代わって新羅を撃つ者として、紀小弓宿禰を任命。小弓は妻をなくしているので、自分の世話をするものを要求し、天皇より、吉備上道采女大海を授けられる。しかし戦で努力をするが従軍した名だたるものは戦死、小弓も病死する。小弓と共に戦場にいた吉備上道采女大海は、小弓の遺骸と共に帰国したが、埋葬場所がないので、大伴室屋に頼み現在は大阪府下である淡輪に墓を造った。

  一方稚媛の方は、雄略の生前にはなにごともない。次の清寧天皇が立つにあたって、稚媛と雄略の間の皇子星川が、母と共に乱をおこしたとある。この時稚媛は大蔵を占拠していた。乱には田狭の子兄君と城丘前来目が加わったとする。しかし来目の方は、同人物を思わす人物は、すでに海外での戦闘で戦死したことにもなっている。いずれにしても大伴室屋の命で大蔵に火がかけられ稚媛たちは焼き殺された。吉備上道臣は軍船40艘を率いてのぼったが間に合わずひきかえした。

  清寧天皇となった白髪皇子はその名のように生まれながらにして白髪だったとされ、母韓媛は葛城円大臣の娘であった。ただ母の出身葛城氏は常に后を出す最有力氏族であったが、雄略は円大臣が、雄略にとって対立者と思われる皇子たちを庇ったことで、円大臣を皇子たちもろとも彼の屋敷ごと焼き殺しているのである。

  その他にも雄略記には、かなりな矛盾を孕みながらも、内外地共で血なまぐさい争い記事が満ちている。しかもその中にあった、吉備の反乱伝承が占めている部分は決して少ないものではなかった。この時期の吉備地方の持つ実力と、河内から大和にかけての勢力、それに北部九州から朝鮮半島勢力の複雑な情勢は、どれだけ実態があるものか?記述された時代的推移に、どれだけ真実を反映しているのか?上道臣とされるものの実態は・・・やはり両宮山古墳一帯を詳しく見る以外なさそうである。

  両宮山古墳は、いったいなぜそこにあるのか?・・・・各地で死んだとされる田狭・稚媛・兄君・弟君たち・・多くの政争の中で命を落としたこの地の多くの人々・・・そこは死の世界で彼らの集う場であったのか?

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