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(203)  小山古墳でのショック

小山古墳後円部、西側段築部より、北西を望む(2015.6)
高架の山陽自動車道向こう、やや左寄りの山が、両宮山古墳
 201回の話題で、両宮山古墳一帯の空撮写真を示したが、その写真説明で、小山古墳の存在に触れている。両宮山古墳の南方で、平地を隔てた山裾に、前方部を山の方に向け、後円部を平地に突出するような形で存在する古墳である。現状では全長は58mだが、前方部やその他がかなり削られているとされ、本来は全長が10mほど長くなると推定(『赤磐市文化財調査報告第2集』2008年)されている。

 先回・先々回の二度にわたって示したこの周辺の写真では、両宮山古墳の周濠土手の上からも、南の小山古墳からも互いの古墳がそのまま確認される状況だったことがよく分かるだろう。だが今では両者の間には、山陽自動車道の高架が走り、多くの人家も増えて周辺の風景の変化は大きい(右写真参照)。

(上)小山古墳墳頂部の舟形石棺断片(2015.6)
(中)古墳を西側から見る
(下)古墳実測図『赤磐市文化財調査報告書第2集』
   2008年より転載

 だが現在もこの小山古墳の後円部上には、左写真のような加工石材片が無造作に集められている。この石材は説明するまでも無く、この古墳出土の舟形石棺が破壊された残骸。先回などの航空写真よりは数年後の事、1973 年10月だったか、この古墳上で、あの大きなショックを受けた時と雰囲気は同じ、周辺の状況には大きな違いがない。石棺片の位置などには少々の違いはあっても・・・・

 この現地でこの破砕されていた石棺の石材を見て、ことも無げに『これは九州の阿蘇溶結凝灰岩ですよ』と指摘されたのは、今はすでに故人、当時岡山大学理学部教授の逸見吉之助先生だった。40余年も昔の話である。この話は今までも、幾度くりかえし、また書いてきたことか・・・・しかしあの時の先生の一言は、いかにその頃の私たちにとって、ショッキングなものだったか・・・硬化した学問の常識を、眼前で瓦解さすものだったか・・・・

 先生のその言葉にたいし・・・・???・・ただ驚き顔の私たちに、先生は石材に素人の私達にも分かりよく、石材断面に現れている溶結したレンズ状斑点を示し、石材産地の説明を丁寧にして下さったのである。ただ先生には、私たちが石材産地を聞いただけで何をそんなにびっくりしいているのか、すぐにはご理解できなかっただろう。

 というのも私たちにとっては、古墳時代が始まって多少時間が過ぎて後に、石材を立派な形に加工して造られた石棺の出現は、古墳時代の身分と権力の象徴であり、古墳文化の中心地である近畿一帯にまず始まって、その後地方支配のための象徴として、地方に波及するもの、という考古学研究上での常識が確立していたのである。同時に石棺は重いものであり、石材産地に近い所に多い傾向から、現在の県範囲を大きく超えるような遠くには運ばれないもの・・・これも定着した常識だったのである。

 ところが吉備(岡山県)に九州産の石材の石棺がある、思いもかけぬ地域から運ばれている、これがまず大きな常識破りの驚きだった。岡山の地元には貝殻が凝結した貝殻石灰岩(浪形石)以外には、加工した石棺が作れる良質の石材(凝灰岩質系の石材が普通)はないらしい、と考えていた。

 だからこそ岡山県下にある石棺の石材産地を探したのであったが、特に舟形石棺は石棺の中でも古いタイプの物なので、もし遠くの石材なら、古墳文化の中心地からもたらされるもの、と云うのが常識だったのである。・・・・それが九州の石材とは?・・・この事実はいったい何事???

 先生の一言はまさに「目からうろこ」だった。考えてみれば石棺の古い形態とされてきたものは、近畿地方には少なく、四国や、九州にあるのでは・・・すべての古墳時代の文化が近畿地方中心と云う固定観念、これこそが間違い、それに気づかされたのが、この小山古墳の石棺だったのである。固定観念に縛られていた私たちの事は、全く別の分野の先生には、むしろ不思議なことであっただろう。 

 この時以来数年、私たちは時間の許す限り、古墳時代石棺の所在地や、各地の石棺石材の石切り場と推定される地へ・・・と駆り立てられた日々が続いたのである。地方の私立の小博物館など研究費の一文もない中でのこと。現在では古墳時代石棺の多くの石材産地と石棺形態の関係、石棺は遠くに運ばれるものの多いこと、それが当時の政治的関係と無縁でないことなど、考古学の常識の一つとして知られている事実、それを証明した、私たちの石棺研究行脚の出発となったのが、この小山古墳だったのだ。

 こうした調査成果については、主には『倉敷考古館研究集報 9−12号』(1974〜1976年)で明らかにしたが、その後も補遺を時々に追加した。また一般的な出版物としては『日本史の謎・石宝殿』六興出版 1978年、『吉備古代史の未知を解く』新人物往来社 1981年、『石棺から古墳時代を考える』同朋舎出版 1994年、などにも基本的な事実と、それによる考えを書いたものだった。その他にも短文を記したものは多い。

 いずれにしても古墳時代では前半から中頃までの石棺は、それぞれの地方豪族の力の象徴であったと見てよいようだ。その中にあって、九州産石材の石棺は、地域差はあるがその地の豪族か、その豪族と関係深いもののために造られ、運ばれた物と見られる。となると、小山古墳の舟形石棺も、吉備の反乱伝承と無縁のものではないだろう。

 いったいこの頃九州の豪族と関わりの大きかったのは誰であろうか。名前の出る人物中には、九州の豪族と直接関係するものは記されてないが、こうした古墳が造られていたことは、九州と無縁でない有力人物がいた証拠。田狭も、その息子の弟君も、何事もなく朝鮮半島に渡り得たのは、大和や河内勢力の力でなく、既に吉備の上道での勢力が、九州と共に、朝鮮半島勢力との結びつきがあったに他なるまい。その証明が小山古墳だったのであろう。

(追記)
【弟君の妻樟媛はその出身は記されないが、九州豪族の出身であれば、有力な後ろ盾があり、もし吉備の夫を殺しても、自分の進退に影響なかったといえる。むしろ夫のため、彼は死んだと偽って、かの地に残し、必要な工人を連れ帰り吉備の立場も守り、吉備の地に貢献したのかも。後には内密での夫の往来をも助けたのかも。弟君が生きていたとの別伝が残っているのも、こうした事態もあったのでは・・・小山古墳の主は、彼女・樟媛では?

 だがこれは全くの想像の世界。小山古墳は両宮山古墳の南方に広がる平地を隔てた向かいに位置する、かなりな規模の古墳である。ここには埴輪もある。この古墳では壊されながらも今なお後円部上に見られる九州の石材による、九州スタイルの石棺を見ていると、以上のような想像もしたくなる。・・・・朱千駄古墳の長持形石棺についても、後日またこうした夢想の世界を描いてみたい、その中から両宮山古墳の謎も、再び膨らむのでは・・・】

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