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(207) 考古館展示中の備前国分寺瓦

  玉井伊三郎氏寄贈 備前国分寺軒丸瓦と記入文字
(左)瓦模様面に版型割れの線状痕跡がある
(右)裏面には墨書で「赤磐郡西高月村「備前国分寺「戦災を示す文字に○印 玉井」




 備前国分寺創建時の瓦
上の瓦との違いはどこか?
(写真は赤磐市教育委員会発行  遺跡に置かれ自由に入手できるパンフレットより転載)
 左写真の瓦は、現在当館に展示中のもので、古く備前国分寺跡から出土していた軒先の丸瓦である。拓本現物の印刷品を、参考資料として頒布もしている。先回この欄の話題で、備前国分寺跡を取り上げたのも、この瓦紹介のつもりがあったのだが、少々脱線してしまったということだった。

  古くより寺跡では瓦片が多いことから、寺廃絶後の土地利用のさい、多くの瓦出土が知られている。各地の著名な寺跡出土の瓦で、特に模様で飾られた軒先の瓦や鬼瓦のような特別の瓦は、熱心なコレクターによって古くより収集されてきた。ここに示した瓦も、そうした瓦の一つである。

  岡山県では、すでに故人となって半世紀近い、岡山市在住の玉井伊三郎氏(1888.6.11〜1967.4.2)が古瓦収集家として知られていた。同氏はその収集品を『吉備古瓦図譜』として200部だけ1941年3月に出版された。そこにはいわゆる吉備の国である、岡山県と広島県東部も含めた、55遺跡に渉った寺院址・窯址・城址の資料が、断片も多かったが拓本による実大でのせられている。吉備地方の古瓦を知るには、貴重な資料集であった。

  1950年に開館した考古館では、この同氏収集の瓦の一部を借用し展示してきた。その後同氏は1960年に、資料を3分して、当館と岡山大学と岡山文化センター(後に県立博物館に移管)に寄贈された。それらは遺跡別という形でなく、それぞれの遺跡資料が分割されて寄贈されたものであった。現在当館展示の瓦関係資料の多くは、玉井氏の寄贈品である。こうした郷土の先学に支えられて、現在の研究もあることを、研究者各自が、深く銘記しなければならないであろう。

 この玉井氏収集瓦は、戦時中の岡山市空襲によって同氏の家屋もろとも被災したものだった。同氏は戦災跡から、丹念に再発掘され、良好に保存されていたものについては、出土地の他に、戦災瓦の旨を記号的に記されている(左上写真参照)。現在考古館に展示中の奈良時代瓦の内で、かつて寺院が火災によって崩壊した時の瓦を思わすような変色があるものは、20世紀の戦火被災のものであることを、注意しなければならない。これも瓦の歴史である。

  しかし備前国分寺自体は、江戸時代にはその後裔と思われるような寺院もなく、地名にもその名残をのこさなかったようだ。ただかつての寺域内と思われる処に、鎌倉時代も古いと考えられている七重の石塔があった。また今も「国分寺」の名前がこの地で残るのは、寺域の北西にある八幡神社の鳥居の額にある文字に微か見えるだけであった。この鳥居は明治14(1881)年に建てられたものだった。

  明治以降、郷土の先学によって、この地に備前国分寺の存在が推定されてきたが、戦後になって、周辺に人家の建設も進んできたことで、1974(昭和49)年岡山県が調査を行い、奈良時代寺院の存在が確認され、備前国分寺跡として国指定史跡となった。その後も赤磐市によって発掘調査や整備が進められており、かつては備前国分寺であった寺域の全貌が明らかになったのである。

 寺跡は、東西は約175m、南北は約190m、南面し、南門・中門・金堂・講堂・僧房・・北門、中門の東に塔、こうした建物が築地塀で囲まれていた。いわゆる東大寺式伽藍配置ということである。七重の石塔が立っていた所は、間違いなく国分寺のかつての塔の跡であった事は、調査で確認されたのである(写真参照)。こうした発掘調査の中から、全く忘れられていた寺の推移も、窺えるのであった。

備前国分寺塔跡発掘状況
礎石抜き取り後が明瞭に判明
(写真は創建時瓦写真と同一のパンフレットより転載。このパンフレットの解説は簡略で分かり易く、本文でも一部参考とした)
  ところで、今回館展示として示した瓦の方は、国分寺創建時の瓦とされるものに酷似するが、じつは瓦の版型が割れたものを合わせて型としたもので製作した痕があった。蓮弁上を斜めに通る凸線である。現代では、紙幣や切手にこうした傷を残す印刷物が発見されると、珍重されるようだが、古代の出土瓦の模様には、型崩れはかなり多い。多数の瓦をまとめて必要とする寺院建設で、少々の傷物は問題にならなかったのかもしれない。

  この寺跡での発掘資料中にも、型割れ文様の出土品は報告書中にもかなりある。しかし館展示品と同じ型のものは気付かれていないようだ。創建時とされる瓦の写真も参考に示しているが、蓮弁模様の外を廻る円圏が、創建時では二重だが、型割れのあるほうは一重である。しかも直径も少し小さいようだ。  或いは創建時よりかなり時代もたって、軒先の瓦が落下破損した場合など、古い瓦の型をとって其れを版型にして、少数作られた補修瓦だったかもしれない。この寺域から出土した物には間違いないようだが。


  備前国分寺は、調査の結果から、平安中期頃から,中門や塔は倒壊し金堂も壊れたが再建されていたという。平安末期には金堂も壊れ、講堂も焼失したようだ。鎌倉期に講堂だけが再建されている。この頃七層の石塔も、塔跡に、かつての七重の塔をイメージして建てられた物であろう。
 その後室町期の瓦も出土することから、当時はなお、縮小されながらも寺が存続していたようである。しかしこの寺も、戦国時代には廃絶したようで、以来忘れられた寺となったのであろう。これらは主に、遺跡に残った瓦片の伝えた歴史である。

  長い歴史の中で、人も草木も早々に消滅していく。ただ石器となった礫や、焼き物になった瓦などは、はるかに長い歴史を伝えている。「人」が「瓦礫」と称して最も不要な物の表現とするのは、なんと失礼なことか。考古館の目立たぬ資料にも、一つ一つに、言い分がある。

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