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(209) 梅干の木

写真左2点は、大きな「梅干の木」の枝と、部分拡大
  中央はガイド氏が、拾った果実の皮を除いた状況 
  右2点は店で販売している皮を除いた果実
  一方はさやの筋はそのままで形が残り、他方はばらけた実。両者同一。
 
 先回の話題が聞き慣れなかった「綿の木」。続いて今度はまた妙な「梅干の木」とは・・・これも実はジャワ島での話である。先の話題でも話の発端は、地元の日本語ガイド氏の言。ただ前回は、世間で通用する「綿の木」だったが、今回はジャワ島の中でさえ、「梅干」が通用しているのかどうかも全く分からない話である。

 というのも日本の梅干は酸っぱ過ぎて、ガイド氏は大嫌いの模様。同氏は日本には来た事は無いとのことだったが、日本からジャワ島に派遣された自衛隊での通訳として、隊と行動を共にしたこともあったというので、きっと日本の梅干には馴染みがあったのだろう。

 博物館的になっていた、かつての王宮関係の建物を訪れた時、彼は建物の前面に広がっていたグランド状の庭で、「あそこに梅干の木があります。」わざわざそこに一行はいざなわれ、その場で彼はまるでアラスカ豆が、莢入りのまま乾燥し莢が硬くなったような木の実を数個拾った。

 彼は外の堅い皮を除き「これが梅干です。味もそっくりです。」(写真参照)といってみんなに手渡してくれた。多くの同行者は、其の酸っぱさで、直ぐ吐き出した模様。しかしよく味わえば、酸っぱさの中に果実独自の風味がある。

 「結構おいしいじゃない」とつい口走ったら、ガイド氏はかなり驚いていたようだった。今までそのような感想を聞いたことが無かったのだろう。同行者も「確かに酸い」という以外の感想はなかったようだ。この木の実が梅干並の酸っぱさを持っているのは確かだったが、独特の味もあった。

 いったいこの実をジャワの人たちはどうしているのか、日本の梅干など知らない人が殆どだと思われる中で。ガイド氏に確かめると、料理の味付けにも使うが、他には漢方(ガイド氏がこの言葉で表現)として使用するという。太った人が痩せるためとか、糖尿の薬にもなるという。この木のジャワでの呼び名は、残念ながら聞きそびれた。

 最初に示した写真が、其の梅干の木と称した木の枝で、まだ小さい実が枝にのこっている。綿の木に負けない大木だった。実の写真は硬い外皮を除いたもの、その横の写真は形の崩れたもの、これらは一まとめ500g単位で売られていた。普通の店でなく、小さい店だがこうした原料を売る店のようだった。この木や実についてご存知の方があれば、教えて頂けると良いのだが。

 梅干の木などと云う、思いがけない話が出たことで、改めて身の回りの梅や梅干が気になった。考古学資料の中に、どれだけ梅があるものか、自問してみたら、まともな自答が無いことに気付く。わが国に梅が自生していたかどうかも知らないことだった。梅の種出土遺跡としては、山口県下関市の著名な弥生前期の綾羅木遺跡などが知られ、その後は弥生から古墳時代をも通じ、多くはないが梅の種や木が発見されているようだが。

 梅は稲作と同じ頃にわが国にもたらされたものというのが、現状の常識といえよう。ただ桃の種が、弥生時代以来多量に発見される遺跡は、かなり知られているが、同じ頃に梅が多量に集中して発見された例は、管見ながら知らない。当時梅の木があったとしても、桃の種のように纏まって種が出土する状況はなかったのだろう。

 中国には、紀元前2世紀、前漢時代の墓として著名な、湖南省長沙市の馬王堆漢墓がある。この墓は、軑侯利倉(2号)墓、軑侯夫人(1号)墓、息子(3号)墓の3基だった。中でも1号墓からは女性の遺体がそのままで発見され、墓からはさまざまな大量の副葬品が出土したことでも、広く喧伝された遺跡であった。実はこの1号墓の副葬品中には、土器壷入りで梅の種も出土していた。

 ここの3号・息子の墓には、大量の書物が絹布に書かれて副葬されていた。この中には医薬書があり、五十二の傷病にたいする治療法や薬が書かれていたものもあり、それは『五十二病方』と呼ばれているが、この中には、梅に関するものは無いように思われた。わが国では弥生時代に当たる頃の事である。

 紀元後となる後漢代の医薬書『神農本草経』には、中品として「梅実」が現れる。しかし梅の実の燻製で、生薬として知られる「烏梅」かどうかはわからない。中国では6世紀の書物『斉民要術』には、梅干、梅酢の作り方まで書かれているようだ。

 わが国では梅が奈良時代には花の代表のように愛でられたらしく、万葉集には118首を詠んだ歌があり、桜の三倍とされている。が、其の実についての利用はよくわからない。ただ生薬としての烏梅が、奈良時代には普通に薬として利用されていたのであろう。

 『延喜式』の内容は奈良時代の状況を反映しているとされるが、そこにある典薬寮には、宮中での行事の際に使われる、薬や生薬名があり、其の中には烏梅丸とか烏梅がある。ともかく奈良の都では梅の実から作られた薬もあったとみてよいだろう。

 奈良朝には、かつての吉備国出身者での著名人の一人に和気清麻呂がいる。彼のことを知る人は多くても、彼の長男和気広世を知る人は少ないだろう。この人物は奈良時代の終わりころ、典薬寮の長官だったようだ。『薬経太素』という医薬書を編集している。この本の下巻に「烏梅」があり、その説明には「冷味酸 湯に入れて心(種)を取り肉を焙研・・・」下痢や口の渇きや咳・・・などによい、と記されている。

 10世紀も後半に編集された、わが国最古の医書といわれる『医心方』には烏梅を(むめぼし)としているらしく、他の書物にも烏梅に梅干と注記している。いずれにしても古代の貢納品には、梅干も、烏梅も見えないようである。

 わが国で、いつの事だったかはよくわからないまでも、梅の木が広く普及した頃には、民間で梅干や梅酢が作られ、食料で、また薬用での効力も知られていたのだろう。体の調子の悪い時は、お粥に梅干。外来生薬の烏梅が民間の梅干と合体したのが平安後半だったのかと云う事のようだ。

 全く対象は違っていたが、ジャワの梅干の木のあり方と、わが国の梅干と、民間で生きた薬用食品と云うことが落ちなのか。


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