(21) 二つの陶棺の主は?

須恵質陶棺  古墳時代末期
           総社市宿ササラ谷出土
(台の下の床の傷は、一光三尊佛を据えていた痕跡)
 「あれは棺桶だな」こうした声だけ聞こえて、考古館の前を、多くの観光客は通り過ぎていく。これを聞くたびに、まだ「棺桶」という言葉が生きている、桶が棺であったことなど何も知らなくとも、この言葉を不思議と思わず使っているのだろうと思う。と同時にこの棺桶そんじょそこらの棺桶とは少々違うのだがと、言いたいところなのである。

 問題の棺桶、写真に見るように、考古館入口に展示している大小二つの「陶棺」だが、前回のこの欄で話題とした、中国の大きな一光三尊佛の後に、考古館入り口のマネキンにしては、少々地味な存在だろう。昨今ではあまり興味を示す人はいない。

左側陶棺蓋に付く宝珠形の飾り
 陶棺といえば、焼き物の棺であれば全てに通用する普通名詞のはずだったが、今では一般的に、多くの足を持つ古墳時代後期の特異な形の焼き物の棺だけを、陶棺と呼んでいる。しかしこの棺は、分布地域が限られているので、考古学研究者を名乗る人でも、案外陶棺の実物を見たことの無い人がかなりいるのでは、と思っている。

 じつはこの陶棺の7割以上は、岡山県で発見されており、大きく分けると2系統ある。赤い焼きの土師質系で、蓋が亀の甲のような形の亀甲形陶棺と、灰青色で硬い須恵質系で、蓋が家の屋根形をした家形陶棺である。

 土師質亀甲形陶棺は、大和と、岡山県でも美作地域である県北、それに近い備前とに濃厚に分布している。須恵質家形陶棺は、全国的に見た場合、古墳時代の須恵器窯があるような地域に、僅かずつだがかなり広く出土している。ところが注目されるのは、岡山県では同じ須恵質家形陶棺でも、屋根の形の違う(よそは四注屋根、岡山は切妻屋根)陶棺が備前東部に集中的に分布しているのである。

 6世紀末から主には7世紀代に、吉備地方の古墳になぜこのような特異現象が起きているのであろうか。奈良で明日香から藤原へ平城へと都が出来上がる頃のことである。吉備の特定地域の人々と、大和での時代の大きな変化との結びつきを、この陶棺は、物語っている筈なのだ。こうした特別の棺に埋葬されるような人が、吉備の東部から大和まで、出かけて活躍していた可能性がある。

 ところで考古館入口の二つの棺は、備中国分寺がすぐ北の平地にある、山丘上の小横穴石室で、奥に大棺、手前に小棺で出土した。同じ吉備地方だが、このあたりは陶棺の少ない地域である。その中で須恵質でありながら亀甲形陶棺に大変よく似た、しかも写真に示したような宝珠の飾りをつけた、他には全く例の無い大変珍しい形のものであった。

 この古墳の出土地の山裾近くには、末ノ奥と呼ばれる所があり、ここには飛鳥から白鳳時代とされる瓦と須恵器を、共に生産した窯跡がある。この瓦は明日香地方で、推古女帝が即位した豊浦宮とも無縁でない、蘇我蝦夷建立という豊浦寺とか、近い所にある奥山久米寺などで使用されている瓦と、同一ともいえるものなのである。

 この頃には宝珠形のつまみを蓋に付けた須恵器容器が製作されている。新文化である仏教仏具などを意識した新形態の飾りといえよう。陶棺はこうした飾りを付けた特製品であった。おそらく埋葬地に近い、須恵器生産者、それも最新文化である、仏教寺院建設用の瓦生産を行う技術集団の出身者で、大和へ出て、宮廷であるいは寺で、重用された人物だったのではなかろうか。

 彼か彼女かは分からないが、大和であの蘇我氏滅亡の政変、有間皇子、大津皇子の死、壬申の乱、当時の錯綜した政界に活躍した多くの人物、あの斉明女帝や天智・天武・持統天皇・・・どのような事件や人々と遭遇していてもおかしくないはずだ。

 小形棺の主も、子供の棺という証拠はない。むしろ遠い地で死去した人の骨が、帰葬されての埋葬と考えられる。どのような生涯を送った人たちだったのか・・・棺桶だけは残ったのだが・・・・



 昭和29(1954)年10月2日 土 雨
 ・・・倉レの小型トラックで現地に行き、5時過ぎ、棺と間壁帰館。(この時2つの陶棺を持ち帰ったが、やはり輸送は倉レのご厄介になっていた。翌日早速洗っているが、この日も雨だったようで、どこで洗ったのか。当時の考古館には、今も使用している、入り口の外について水道の蛇口―頭のねじを取り外すタイプのもの―が唯ひとつあっただけなので、外の川べりで大きな遺物など洗っていたのだが)


トップページへ戻る  よもやまばなし目次へ戻る


〒710-0046 倉敷市中央1-3-13 Tel.(086)422-1542 公益財団法人 倉敷考古館