(35) 金の鎧

メトロトリタン博物館蔵
伝新山村山口出土
古墳時代短甲
新山村山口出土短甲図 これには頚甲もある
沼田頼輔『考古界』1-2より
 この「よもやまばなし」20では、現在大原美術館に展示されている、石造一光三尊仏は、かつて中国の河南省新郷県魯堡村百官寺にあったが、古く地元小学校の修理費として売却されたものだったことを話題にした。実は同じような話が、先回取り上げた、笠岡市新山の長福寺裏山古墳の一つから出土したと伝えられる短甲(古墳時代の鎧の一種)にもある。

 その短甲は、ここに写真を示したものだが、これは現在米国のメトロポリタン博物館の蔵品である。写真は以前これらの古墳群を調査した際、同博物館より取り寄せられていたものを頂いていた。この短甲が米国に渡った際の経緯は、今や古文書でもある、公文書が笠岡市には保管されていて『笠岡市史 第1巻』(1983年)に掲載されている。

 なおこの短甲は、明治34(1901)年か、それ以前発見のようで、同年3月7日付の、小田郡新山村山口(長福寺裏山古墳群の旧所在地名)より発掘の鎧・刀・陶器などに対する、地理歴史調査官出張命令書なども、市史に掲載された資料中に残っている。

 またこの短甲については、沼田頼輔(1867〜1934)氏の報告が、雑誌『考古界』1-2(1901.7)にある。彼は、歴史・考古・地理等の草分け的な学者の一人として知られ、紋章学の泰斗でもあり、岡山県下でも、岡山師範学校教教諭や金川中学校教諭、西大寺高等女学校校長などを歴任している。その報告中に書かれていた図が、左のものである。メトロポリタン博物館の短甲の写真には、頚甲は無いが、全体の形状や破損部分の状況から見て、同一の物に違いないだろ。

 笠岡市に残る役場文書によると、この短甲を来日中の博物館長に紹介したのは、沼田頼輔氏らしい。以前に沼田氏がこの短甲を入手する約束をしていたようだが、博物館の代理人である学生と売買の交渉をしてもかまわないという意味の、沼田氏の念書のような物まである。

 村側と、代理人との交渉の駆け引きと言うか、両者の値段の差は最初は1対5くらいで、あまりの高額に、博物館側も購入をあきらめていたようだ。しかし急に館長の帰国が決まったと言うことで、明治38(1905)年に電報でのやりとりで、300円という当時としては破格の高値で、メトロポリタン博物館に売却されたのである。

 当時の物価との対比のため、倉敷町のことではあるが、明治38年の町教育費年間歳出額を示すと、3,104円なのである。(『新修倉敷市史 5 近世』2002年)もちろん教師給料も、学校経費もすべて入っての金額である。笠岡の新山村ではこの代金で、学校に必要な理科用具を購入したと伝えられる。

 この短甲は、保存状況は良好だったようだが、現在の写真で見ても、古墳時代当時として、ごく普通の鉄板による製品であり、沼田氏の報告でも、金製とは一言も無い。ところが私たちが、地元で出土地と伝えられている、長福寺裏山古墳群を調査したとき、地元の多くの人に伝えられていたのは、ここから「金の鎧」が出てそれはアメリカの博物館にある、ということなのである。地元の一般の人々にはそのように信じられているようだった。

 売却された当時としては、錆びた鉄鎧では、どうしても信じられない高額な代金だったことで、それは金の鎧ではなかったのか、との思いからであろうか。それとも金になった鎧ということが、金の鎧になったものか、理由はよくは分からないが。

 ともかく私たちの調査が1961年であるから、短甲が売られたときから見ると、60年足らずしか経たないのに、鎧の伝承は、このようになっていた。この話を聞いたときは、あるいは金銅製品の何かではないかとも思ったが、市に残る文書や、沼田氏の報告から見て、写真の鉄板製短甲に間違いないであろう。

 近い時期のことも、伝聞だけを鵜呑みには出来ない。今では『笠岡市史』にメトロポリタン博蔵品の写真も掲載されたので、金の鎧伝承も影を潜めたかもしれない。ただ当時、300円の理科の用具とは、一体何だったのか、これは話題になっていない。



仙人塚造出し部埴輪列
1936年12月4日 月 晴
 仙人塚の石室からは何も出土しない。完全な盗掘。作り出し部より埴輪列を発見。葺き石も中段の上に、鉢巻状に検出。埴輪の中にはきぬがさもあり。一つ塚の方も、完全な盗掘らしい。・・・・
(問題の短甲は、この仙人塚とか一つ塚出土と伝えられるが、これもあくまで伝承である。)


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