(40) 四人の男性の死

< 倉敷市涼松貝塚
水道パイプ埋設で縦断された4体同時埋葬の縄文人骨
 「これなら一般の人は、牛の骨と間違えるのも、無理はない。」現場を見た第一印象。と言うのも前日に、当時は県立玉島高校の先生で、倉敷考古館とも常に連絡のあった考古学研究者、倉敷在住の小野一臣氏より、「涼松貝塚の農道へ、灌漑用の水道パイプを通していたら牛の骨が出た、との話を聞いていってみたら人骨のようだ。」との連絡をいただいたので、翌日早々に、現在は倉敷市内となっている、船穂町涼松貝塚に行った時のことである。   このように書いたが、実はすでに40年も前、1968年8月15日のことであった。

 幅が1m少々の農道には、中央に溝が掘られ既に数本のパイプが設置済みだった。だが一角はまだ露出した状況で、そこには太い四肢骨状の管骨が幾本も溝堀りで断ち切られ、断面を見せているだけでなく、周辺にはかなりな量の骨片が散乱していたのである。人類学の専門家でなくとも、遺跡で多少人骨に接しておれば、それが人骨であると判断はできる。

 しかもここは古くから知られた、縄文時代涼松貝塚の一角でもあり、既に考古館でも、他地点の小調査を行い人骨も数体発掘していた。ただ何分にも太い管骨の数や並び方が、尋常でない。応急の周辺調査で現れたのが、上に示した状態であった。

 結局は5体の人骨がかたまって埋葬されていたのだ。まず4体の人骨が、大きな穴の中に頭を並べ、伸展の形だが、脚の辺りは多少交互に重なった状況で一括埋葬され。その後これらの上に、頭の方向をほぼ直角に変えた屈葬人骨が、1体埋葬されていたと見られる状況だったのである。

 上部の1体は、位置が浅かったことと、堀割った溝と平行に埋葬されていたので、破壊が激しく、詳細は不明であった。下部の4体の方も、写真で分かるように、中央部の破壊が激しいだけでなく、幅狭い農道と丁度直行した埋葬位置だったので、農道の側溝で、3体は頭骨がほとんど削り取られた、哀れな姿であった。

 この遺跡でそれまでに発見された人骨では、それぞれが1体埋葬の屈葬と考えられた。ところがこの人骨たちは4体が、足などは重なる形ながら、並べて同時に埋葬されていたことは間違いない。

 しかも縄文時代では、副葬品は大変珍しく、死者が身に着けたと思われる装飾品的なもの・・これも数は少ない・・以外、特に道具類を、副葬する例は大変少ない。にもかかわらず、この4体の内の2体では、頭のすぐ横に、石匙と呼ばれている、当時の人にとっては携帯用ナイフのような石器が置かれ、他の一人でも同じような用途の石片が、同じような位置にあった。残る一人に接しては、石鏃一つが発見されたのだが、これは副葬されたかどうかは明らかでない。

 人骨の保存状況も良くはなかったが、人類学者によると、4人同時埋葬の人達は、成人の男性ばかりだったようだ。上部の屈葬人骨は、保存状態も悪いので、性別は不明であった。

 なぜ男性4人が同時に死亡したのか。現代人の感覚では、争いでの死者ではとの思いがまず頭をよぎるが、縄文時代の他の多くの人骨を調べてみても、争いで死亡した痕跡を見つけるのは、困難なのである。これは弥生人骨との大きな違いで、弥生人骨の中には、多くの石族が体内に打ち込まれていたり,銅剣・石剣の破片が体内にあったり、骨に切り傷がのこったり、首のない場合すらある。

 縄文時代のあまり大きいとは言えない、海浜の村で、四人の男性が同時に死ぬなどは大きな事件ではなかったのか。日常生活の必需品ともいえるナイフを持たしてもらって葬られた人には、葬った人々の特別な思いがあったのであろうか。現代人の勝手な思いはさまざまあるであろう。

 ともかく、緊急の調査では、小野先生の教え子である玉島高校の幾人かの学生さんたちが、人骨発掘の細かい仕事を良く手伝ってくれた。当時は各地で大学紛争の真最中、目的の大学受験もままなら時代だったが、彼らは受験勉強中であったり、世間では盆休み中でもある。

 その高校生が既に還暦に近い歳月が経っている。その人達にとって、この縄文人たちは、記憶の中でどのような生き方をしているのであろうか。すでに人骨たちが生きたと思われる歳月より、彼らははるかに長い歳月を生きている筈なのだが・・・まったく忘却の中だろうか。

 今人骨たちは、大阪市立大学医学部資料室の中にいる。


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