(44) 学者が作ったミステリー

1920年10月船元貝塚出土の1号人骨(女)
 前回に続いて倉敷市粒江船元貝塚の話である。この貝塚では出土人骨の性別で、周辺貝塚では男性の方が、女性に比べ、倍から多いのに対し、この貝塚では女性が断然多いのが不思議だといったが、実は今ひとつ男か女か奇妙な問題があるのである。

 先回引用した清野謙次氏の『日本原人の研究』の中に、「粒江(船元)貝塚の一人骨には、その上部胸椎骨の体部に精巧な石鏃が突き刺さったままでてきた。」とあり、性別にはふれてないが、石鏃については、生前にささったものとおもうが、負傷後まもなく死亡したものだろう、石鏃の周辺に骨組織の増殖は無かったとし、当時としては本邦初発見の大変珍しい事例としている。

 同じ清野謙次氏は、同氏の遺稿集ともいえる『日本貝塚の研究』(岩波書店1969年)の中では、石鏃は「胸骨」でなく「頚骨」に刺さったとし、この人骨は、粒江(船元)4号人で女性、年齢不詳、右腕に貝輪1個をはめている、とする。ところが、先回の話題で引用した山田氏の資料集成の中では、この骨を「実見済み」とした上で、粒江船元3号人骨の欄に、石鏃が頚骨に突き刺さっている、人骨は男性老年とする。山田氏も、清野文献との食い違いに、「どうしたものか」と注記している。

 以上のような奇妙な問題もあり、船元出土人の性別を、今一度確認したく、数年前だが、京都大学まで船元出土の人骨を見せていただきにいった。人骨を管理する教室の責任者で、人類学者として著名な片山一道教授(多くの著書もあるが、『縄文人と弥生人―古人骨の事件簿―』というような楽しい本も書いておられる)に、改めて船元人骨の性別や、石鏃の刺さった人骨についての見解を伺いたかったのである。この時、教授と一緒に、直接人骨を見ながら、意見をうかがった。

 一番残念だったのは、そこでは問題の3・4号人が、共に所在が不明だったことである。

 山田氏は実見済みとされているので、どこで見られたのか、この方は結局傷ついたのが男か女かミステリーのままであった。

 一方で検討しえた13体の内、男性2・女性8・幼小1・不明2で、この内の女性1体は、今回トップに入れた人物写真、まるで笑っているような髑髏顔が、この女性なのである。先回写真が残っていた島田氏たちの発掘人骨の1号人であった。島田氏発掘の3体の内、1号のみが京大へ入り、左下写真の2体合葬2・3号人は、東京大学へはいっていた。こちらの方は2体とも性別不明のようだ。

船元貝塚 1920年10月発掘時の2・3号人骨
 ともかく船元に残された人骨は女性がだんぜん多かった事には変わりなかった。

 その時、同教授は「その程度の男女の出土数の違いは、偶然でもあるでしょう」とのことだったが・・・・・船元の男たちは何処へいるのか?・・初めからいなかったのか?・・

 涼松貝塚で4人が同時埋葬されたのは,恐らく縄文中期のこと、船元貝塚も代表的な中期の貝塚である。縄文中期という言い方では、その期間が、千年近い長期間の話でも可笑しくないことは、十分知っての上なのだが、船元の男性たちが、涼松の辺りで何かの事故で死亡するようなこともあったのではないか、というような妄想も頭を出すのである。

 当時の縄文人にとっては、涼松―船元間の10km余りの瀬戸内の海などは、一日の楽な行程の漁場ではなかったのか、それでも時に海難事故もあったのでは?

 石鏃がささった人物が、男か女かで空想は大きく違う。ただ一人貝の腕輪をはめていた女性が、争いのほとんど無い世界で、矢でいられたのだろうか。女性の多い村で?・・・男性ならきわめて数少ない男性で老人である・・・なぜ彼に矢が?・・・ここからの想像はみなさまにおまかせしたい・・・・これ以上のことは実証できないのが現状である。

 ただ確かなことは、何千年かの後に、この世に連れ戻されてからの人達が、女か男か、何処にいるのか、確かめられないのは、現代人の作ったミステリーなのだ。


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