(5) シジミ汁と空になった釜の飯

(福田貝塚 縄文後期土器)

 前回に続いて同じシジミの話だが、こちらは私たちが食べた話。  遺跡の発掘といえば、現在ではたとえプレハブでも、大土木工事並みの冷暖房完備事務所から倉庫その他と、発掘環境が整えられている。それは当然のことではあるが、われわれのような私立の小博物館の調査では、かつて一度も立派な環境などはなかった。しかしそれだけに、思いがけないことに遭遇し、話題を欠かないことにもなった。

 倉敷市には縄文貝塚が多い。中でもかつての児島の北岸だったところには、著名な貝塚が多く、その一つ福田貝塚を調査した時のことである。しかしこれは1951年のことだから、現今の状況とは全く比較できないが、発掘は指導者以外すべて、現代風にいえばボランテア、いわゆる勤労奉仕の中・高・大生、宿舎は近接した小学校の板敷きの、普通教室だった。食事は当番制で数人ずつ、食後の食器洗いは辺りを流れる用水路の小川である。現在では信じられないことだろうが、当時周辺ではこれが普通の生活だった。学校も井戸水を手押しポンプで上げて使用していた。
 食器洗い当番のとき、小川に入って川底を見ると、なんとシジミの目(気孔)が見える。掘ってみると立派なシジミである。食器洗い組は途端にシジミ取り組に変身・・・・中身のない貝殻の貝塚を掘るよりは、こちらのほうに身が入っている・・・・・・誰か大声で怒鳴る声がする、気がつくと、とっくに作業開始時間を過ぎていた。それでもかなりな収獲だった。

 今では暗渠になって姿さえ見えない小川に、半世紀前にシジミがいたといっても、信じてもらえるだろうか。その夜の食事には余分のご馳走にシジミ汁が付いた。結構味は良かったのだが、残念なことに、食べることを先行したため、シジミの砂を吐かすことを忘れていて、かなりな部分でじゃりじゃりと砂を噛んだ記憶が鮮明である。

 この調査ではもう一つ、食に関係した事件があった。調査終了後、後始末に残ったものが、翌朝の食事のために、釜の飯をそのまま外の涼しいところに置いた。腐敗防止のためでもあった。ところが朝には、一粒の飯も残っていない。まだ食料が十分だったとはいえない時期である。いったい誰が食べたのだ?結局は野良犬に食べられたということだったようだ。おかげでしんがり組みは朝食抜きという仕儀になった。
 現代のような飽食の時代ではない。真夏の発掘の最後が食べ物の恨みとなると、半世紀たっても記憶に新しいのは、昭和一桁代の悲しい性だろうか。

   ・昭和26(1951)年8月29日 水 曇り
 福田より遺物を取りに小型を廻すようにとの電話で、久住氏に電話で車をまわしていただくようにいたしました。・・・(久住氏は当時の倉敷レイヨン、今のクラレの課長で、考古館関係の各面でのサポートをも担当、車がまだ少ないこの時期、考古館では何かあれば、倉レから車を廻してもらったのである。考古館設立は当時倉敷レイヨン社長であった大原総一郎氏の、全面的な援助によるもので、設立後も常にこうした援助を頂いた。)
                      ・同年9月1日 土 曇り
 古新田(福田古新田)より電話で3日に引き上げる由・・・(釜が空になったのはこの3日の朝だったはず)


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