(52) くめ(久米)とみやけ(屯倉)

火葬骨臓器
須恵質四注家形小陶棺
倉敷市広江出土
 前回「かめのこう(亀甲)」の続き・・・・小形陶棺形の火葬骨蔵器の話だが、今回のものは(亀甲)ではなくて(家形)である。しかも須恵質。先のものは土師質で出土地は、中国山地・吉備高原。今回のものは瀬戸内海・吉備の児島出土。両者は何もかも対照的なのだが、ともに、吉備地方以外では、極めて例の少ない、不思議な多足付き焼き物の棺のミニチュアであり、時期は同じ頃のものなのである。

 左の写真が今回のものだが、これは現在では倉敷市広江、古くは児島郡福田町広江の折石出土である。倉敷市広江といえば、この欄の(49)「銅戈のかけらと吉備の児島」で話題とした海浜の広江遺跡があるところだが、この小陶棺が出土したのは海浜の遺跡からいえば、2km近くも東の山中である。ただ出土地の眼前には、今では岡山市から倉敷の工業地帯水島への、幹線道路ともいえる道が通っており、その道は古くから児島の中でも、西の水島灘と東の児島湾を結ぶ最短の陸路だったのだ。

 この小陶棺は、現在の道路からいえばすぐ北の、南面した山裾近くで発見された。それは1957(昭和32)年のことで、その辺りの開墾中のことである。先の久米郡打穴での出土より、四年も前である。この火葬骨蔵器出土の報は、三宅千秋氏によって、考古館に伝えられた。同氏は、倉敷市に合併前の連島町長や県会議長もされ、後には倉敷市の文化財委員長などもされた郷土史家でもあった。倉敷考古館は、前の松岡氏といい、この三宅氏といい、こうした古くからの地元の史家に、支えられてきた面は大きい。

 この小陶棺出土の現地には、何の遺構も残されてなかったが、他に焼きひずみが激しく、まるでつぶれたような形の坩1個が発見され、火葬骨は棺内いっぱいに満たされていた。棺は、硬い須恵質、全高は31cm,全長38cm,幅30cmの長方形、蓋は頂部に10cmばかりの屋根棟を作った四注屋根形、身の底には、高さ7cm前後の筒状足四本が付く。重さは、現在では身が6.1kg、蓋が3.7kgだが、持ち帰ったときは、火葬骨が土混じりで満たされていたので、身だけで10kgはあったのでは、2kmばかり先のバス停までは、やはり重いものだった。

 偶然にもこの陶棺出土を連絡くださったのは「みやけ」氏。この三宅氏のお住まいは連島だったが、連島は古代には児島と一体的に考えられる地だった。この連島や児島地域には三宅姓の人が大変多い。ある地域に同じ姓の人が多いことは、決して珍しいことではないのだが、そのような時、その姓が何かに由来していると思われることも多いだろう。

 現代と古代を直結しようというわけではないが、『日本書紀』に語られるところでは、吉備の児島には「児島の屯倉」が置かれたとある。「屯倉」は奈良時代より以前の、中央の直轄地のようなもので、「みやけ」と呼ばれている。この屯倉が置かれるところは、重要な産物の生産地や、交通の要地のようなところである。古墳時代以来の地方豪族と大和の勢力とのせめぎ合いの中で、大和が勢力を確立し地方へ拠点を作ってきたといえるものなのである。

 吉備の児島は、吉備勢力にとっては、瀬戸内海の水運拠点でもあり、塩生産の中心地域でもある。もともと各地との交流の玄関口だったともいえる。その一角に、中央勢力の出張所が出来それが(みやけ)と呼ばれていたら、そうした一帯に呼び名も長くのこり、その辺りに住まった人たちの、呼び名ともなったのではなかろうか。

 例えば、古墳時代のことでありながら、当時の須恵器窯が多く発見される地に、今も「すえ」と発音される地名がよく残っている。岡山県でも、備前では瀬戸内市長船町須恵、備中では倉敷市玉島陶などのように・・・・古くは意味を持つた呼び方だった地に、今では全く意味は忘れられても、古い歴史的とも云えるような呼び方の残る例は多い。こうした地名や、名前の中にも、忘却された歴史が刷り込まれていることを読み取らねばなるまい。むやみに地名や呼び名を変えるのは、文化財破壊でもあるのだ。

 先回の土師質亀甲形小陶棺出土地の一帯は、古代以来「久米郡」であり、特にその一帯は「久米」と呼ばれてきた地域である。この「久米」は『古事記・日本書紀』の中では「久米歌」などとして知られる中で、「みつみつし久米の子」などと呼ばれ、王宮近くに仕える武人であったり、故郷の山で鴫罠を張り、鳥を捕るのにかこつけて、前妻・後妻の話に打ち興じる村人でもある。

 こうした僅かに残された古代の文献との関わりをみても、早くに火葬を採用した人たちは、新文化と遠かった人たちではない。交通の要路であれば、直接海外の文化にも接することも出来る。山中深くに住まうと思われた人々も、時は対外的にも動乱期、優れた武人を輩出した地であれば、朝鮮半島での戦いに動員された可能性もある。『日本霊異記』の中に語られる、備後三谷の大領の祖先のように。この大領の祖先は、生きて帰れたら、寺を建立すると祈っている。・・・多くの「水浸く屍」を出した白村江での戦い・・・

 久米の人たちも、どのような犠牲を強いられたことか・・・しかしともかくこの地の人たちも、新文化に接する機会は、充分多かった時代なのである。

 土師器でも須恵器でも、地元ブランドである陶棺の小形品を作り、火葬になっても、その中に埋葬された人は、あるいは央の支配機構の中へ、身を置いた人たちだったかもしれない。それでも眠る地は故郷だったのである。今もその人の骨は、僅かとはいえ、考古館の中にいる。


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