(56) 覗き見・・1800年バック

(上)ガマズミの入っていた壷 高27.5cm
(下)壷に入っていたガマズミの種 約1.5倍
 我が家が燃える火を、住民はどこで、どのような思いで見つめていた事か・・・・先回話題にした美星町で復元された、かつての住居でのこと。ただし1800年ばかり昔ではあるが。

 この住居址は遺跡として発見された時、多くの炭化した屋根材や柱の存在、日常の道具の土器や砥石類が、もともと在ったと思われるあたりから出土した。この状況を見れば、誰にでもここが火災にあった住居址である事は分かるだろう。

 とはいえ、竪穴住居址の発掘ではかなりな割で、炭化した屋根材や柱が発見される。これらは確かに火災住居に違いないのだが、気を付けねばならぬのは、家を放棄するとき整理も兼ねた、意識的な焚家なのか、全くの失火なのか、それとも放火なのかということである。そうしてその理由は?・・この点現代の火災原因調査と変わりないかもしれない。

 美星町の住居址は、多少楕円形の竪穴住居で、長径が7.7m、短径7m、当時としてはやや大形の家だが普通品といえる。二個の砥石は床面に据えられたままで、住居の壁際とか、壁からせいぜい1前後離れたところに、似たような壷・甕が原形に近いままで、2〜3点ずつ点在した。これらの中には完形に近く、あまり土が入っていない状況のものも数点あった。全体では21〜22個。

 住居址中央には貯蔵穴らしい穴があり、炉跡らしいところはあきらかで無かったが、中央近くには三個の碗形品が、重なって置かれていた。高坏は四個点在、壁近くで鉄製の鏃1本、というようにかつての生活の場での状況をそのまま思わすような形で、多くの遺物が出土したのである。これは少なくとも、住居整理のため焼いた家屋ではない。

 その上、一個の甕の中から、炭化したかなりな数の種子状粒子が発見された。一見麦にも見えたこの粒子は、既に故人となられた、当時の岡山大学農業生物研究所の笠原安夫博士の鑑定で、ガマズミ属のヤブデマリであろうとされた。と同時にこの実は食用になり発酵しやすいので、果実酒を作った可能性を、示唆されたのである。

 また笠原先生はガマズミが実った頃、実際に山で採集され、実が発酵して果実酒になる実験までもされたのである。この時、試験管に入った僅かな果実酒だったがいただいたのである。ただアルコール分は大変薄いながら有るとのことだったが、味わったのでは分からない、というのが本音であった。やや舌をさす僅かに酸っぱいものだったと記憶する。

 博物館などで復元住居として展示された竪穴住居址の中には、よく夫婦らしい男女と、1〜2の子供が配されている。現代人にとっては何の不思議も無い家族構成だが、本当にその頃、常日頃一つ屋根の下に住まう人達は、一体こんな姿だったのだろうか。地域や多少の時代差で、家族の姿はかなり違っていたと思う。

 焼けた住居址の中には、四個の高坏があった。良く知られているように『魏志倭人伝』の中では、丁度この頃の倭人の生活を記しているが、人々は「豆」を用い手で食べるとある。豆は文字の形が示すように高坏のこと。であったらこの住居には、4人の人物がいたのだろうか。子供も同じような高坏へ盛って食べたのか?・・男女別も年齢もこれだけでは分からない。

 だいたいどのような「飯」が常食だったのかも、真実はなかなか分からない。季節による違いもかなりあった筈だ。調理用の道具である土器類は、火災のため表面が焼け爛れていて、調理による火を受けた跡はわからなくなっているが、ここでは蒸器に当たる器形のものはなかった。

 結局、少々覗き見したぐらいでは、残念ながらここの住人のプライバシーのガードは高かった。ただ僅かに、清涼飲料程度の酒があったらしいことは証明されたが、住人の一人がこの酒を飲みすぎて、現代のどこかの大臣や有名タレントのように前後不覚になって、失火したわけではないだろう。

 またこの頃の火災は現代と違い、有毒の煙が人命を奪う事はまず無かった筈だ。家族みんな、呆然と焼ける我が家を眺めたかもしれないが、全員は無事で、翌日からはどのような形の家族であれ、再建に力を合わせて頑張っていたことと思いたい。


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