(58) 倉敷川にカヌー・・・イベント映像のピンはね

考古館前の倉敷川に浮かぶカヌー
かつての児島湾まで下るイベントのリハーサルらしい
 今朝(2009.5.20)8時半前だったが考古館に出勤したら、前の倉敷川で2艘のカヌー(カヤックというべきかよく知らない)が動いている。この倉敷河畔ではどんなイベントが突如として催されていても、昨今では驚かなくなっているが、とうとう川の中も周辺道路並みに、何が現れるか分からなくなったという感じ。

 それにしてもなぜカヌーなのか、毎度の事ながらカメラをもって、ちょっとパチリ。カヌーの主は、こちらを向いてポーズを作ってくれているよう。路上から少々大きな声で、「何事ですか」と聞くと、カヌーの主わざわざ漕ぎよって「イベントのリハーサルですよ」と愛想良い返事。

 「イベントって何ですか」と聞いたら「ここは昔は汐入川といって・・」丁寧な説明をされだしたので、申し訳ないが「それはいいんです、何をするのですか」とついたたみかけた。なんでもケーブルテレビの人達のようで、カヌーで倉敷川くだりをし、それを映像にするらしい。しかしなぜカヌーなのかはわからない。今回の写真は、イベント映像のピンはねをしたことになる。

 倉敷川は汐入川だったこと、沖の干拓が進む中で、かつての干潟の中の澪筋だったこの川を船の出入り可能な運河として残すには、江戸時代以来周辺住人の努力が大きかった。この〈よもやまばなし〉の28・29・30話あたりでふれていることだが、ともかくこの川は、1940年代頃までは倉敷市街地へ物資輸送の重要な道だったのだ。現在90才近いような人がガキ大将だった頃には、川岸に着いたミカン船に、こっそりミカンを頂きに行ったなど、話してくれた。

 29話でも書いたように、児島湾が締め切られ淡水湖化したのは1956(昭和31)年だが、考古館開館は1950年、開館後数年の間は前の倉敷川でも潮の満ち干があり、満潮時には水を湛えているが、干潮時には川底が見える状況だった。今満潮か干潮か、前の川の水位を時々見に行っていたことがあったのだが、何のためだったかは思い出せない。締め切り後は、どぶ川化した川が、常に問題となっていたのである。

 これもこの〈よもやまばなし〉の13話で書いたが、現在考古館の建物になっている江戸時代の倉は、隣で旅館鶴形となった母屋ともども、かつては浜田屋として知られた有力商家小山家の店であり蔵や屋敷であった。この浜田屋、13話に絵で示したように明治初年の本には、生魚問屋とある。しかし江戸時代にはさまざまな品を扱う商家で、薪問屋でもあったようだ。当時町屋では、薪は重要な商品である。

 『新修倉敷市史』4近世(下)などで見ると、文政10(1827)年には倉敷では三軒の薪問屋があり、浜田屋もその一軒だった。その頃には倉敷で、一戸年間平均2トン以上の薪が必要だったようで、その多くは、産地の吉井川水系から高瀬舟ではこばれる薪であって、700艘分にあたる。重量と嵩のある薪などは、水上輸送が原則で、これらは海上から倉敷川ルートで、店の前まで入っていたのである。ただ主要産地からの途中には、大消費地の岡山城下町があり、200年近く昔の倉敷では、薪入手や販売でとかく悶着が起こっていたようだ。そうした記録が残っているのだ。

 何はともあれ、当時は倉敷川利用の薪搬入は多く、川には薪舟がひしめき合っていたことだろう。200年近い後の現在、川幅が狭められてはいるが、かつての薪問屋の面影を残す辺りの川で、同じ舟とはいえ、200年前の人には思いも付かぬ形の舟が入っているとは・・・・・歴史的な景観保存とは何なのか・・・・
 それでも川や建物の一部でも、残っているだけ良いではないか・・・・・200年後には、この川に何が浮かんでいることやら・・・・というよりこの倉敷川がそのままここに在るのやら・・・・この地球上はどうなっているのやら・・・・ではなんとも哀しい。


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