(6) 裸の訪問者

(高梁川の河原に散布した土器片)



 今回話題にする酒津遺跡については、考古館の主な調査や展示品を説明したコーナーで、すでに概要を示している。それは倉敷市を流れる高梁川が大渇水のとき、流路だった部分から大量の土器が出現し、夏休みで川に遊びにきていた中学生が発見、考古館に連絡してくれたことで、この重要な遺跡が陽の目をみることになった、ということである。それは1955年の真夏のことであった。

 他の地域でも河床から遺跡が発見される場合は多いが、特に高梁川の酒津地区は、大正時代(1912ー26年)のほぼ全期間を通じて行われた長期の河川改修により、流路が変更されて河床となった部分で、近年まで村や田畑があったところが多く当然遺跡が存在しても良い地形であった。
 普段は全く水没して見えない位置にあった土器群であったから、渇水状況とはいえその多くは水中にあり、水中考古学とまではいかないまでも、かなりの深さの有る水中のこと、水着の用意などなく駆けつけた者は、仕方なくパンツ一枚で水中で、もっぱら採集作業ということになった。このような遺物の採集方法は、研究者からはひんしゅくを買うものかもしれないが、一度大きな夕立でも来て増水すると、採集することさえ出来なくなるし、流失の恐れも多い。

 現実にその後、或る渇水期に、河床にまるで突きたって林立したかの様に散布していた土器片が、その後に行ってもどうしても見つからず、川の流路までも変わっていた経験もある。ここに示した写真は、1970年ごろ、たまたま高梁川の酒津河原を訪れたとき、水路岸の砂原斜面に、風紋と共に現れていた弥生後期の土器片群だった。こうした状況下で採集した資料については、『倉敷考古館研究集報8号』(1979年)にも報告している。この写真はその8号の表紙にも使用したものである。

 ところで、パンツ一枚で採集した膨大な量の土器片の、持ち帰りが大変だった。近くの八百屋でリンゴ空箱だけはやっと調達したが、考古館までは同じ倉敷市内とはいえ4kmばかりは離れている。ただ運よいことに、遺跡の近くに倉敷レイヨン(現クラレ)の倉敷工場があった。他でも触れたように、ここの工場の課長さんには、何かと言えば車の無心をお願いしていたのである。
 ゆっくり身づくろいする時間などない。全身ぬれたままのパンツにランニングシャツという、まったく裸同然の姿で工場の門へ駆けつけて、門衛の人に、いつもお願いする人への連絡を請うた。門衛の人にはきちっと対応いただいたが、後で聞くと、いまだかって裸同然の訪問者が課長などを尋ねたことはなかったと、後々までも一つ話になったとか。倉レ門衛の厳格なことを、当時の新聞記者仲間は、「一に倉レ、二に倉紡、三・四がとんで・・・」などといっていたようだが、よく門前払いをくわなかったこと・・・・・

 裸同然の訪問者は、現代であったなら不審者として、倉レ工場へ着くまでに警察へ連行されていたかもしれない。・・・・・・・ともかく遺物は無事に考古館まで運ばれた。


  昭和30(1955)年8月12日 金 晴れ
「・・・昨日はレイヨンへ裸で行って、久住さん(課長)にお願ひされたとか、思ひ出しては笑えてしかたがない。」 (まだ旧仮名使いで書かれている)


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