(70) 曼荼羅

倉敷考古館研究集報 18号
     表紙絵
倉敷市城が端遺跡 近世墓模式図
 左の図を見て、誰だっただろう「曼荼羅ですか?」と言ったのは・・・・いま皆さんなら何とお思いだろうか・・・・

 図を良く見た方なら、そこにある年号1984年4月にお気づきと思う。先の「曼荼羅ですか?」を耳にしたのは25年も昔のことになった。この図柄はその年月の時、『倉敷考古館研究集報 第18号』として出版した冊子の表紙絵部分である。

 曼荼羅といえば、わが国で仏壇のあるお宅では、いまでも馴染み深いものかもしれない。仏教教義には全く疎いものが、曼荼羅についてとかくいうことは出来ないのだが、辞書的な説明では、梵語を漢字表記したもので、仏教の真髄・本質を持つもののようである。つまりは仏教の世界観や聖域を、仏像でも、文字でも、何でもシンボルと成りうるものを用いて、象徴的に目で見える形にしたもの、ということのようである。特に密教で用いられるようである。

 となると、この表紙絵も曼荼羅にもなりうるのか。曼荼羅かと言われたとき、思いもかけない言葉だったので少々驚いたのだが、曼荼羅の示す世界観を知る人であれば、象徴的な意味を込めたのかと、作った方が意図しない意図を、読み取ってくれたのであろうか・・・

 あるいはただ、周辺で見る曼荼羅に配置が似ていたというだけだったのか・・・

 この図柄の正体は、江戸時代の墓地である。報告書が出版されるより7年も前のことで、1977年に、倉敷市内ではあるが、かつての児島の一角である粒江から、備前焼の骨蔵器や人骨が出土していたため、考古館で調査した城が端遺跡でのことである。

 粒江といえば、古くから知られた縄文中期が主体の、粒江船元貝塚のあるところである。この城が端遺跡は、船元貝塚の、すぐ西に並ぶ山裾先端にあった。しかも中世の貝塚まで形成していた。基本的には中世の火葬墓と土葬墓の墓地、と予想しての小規模な発掘だったのだが、中世関係の遺跡地は、その多くが既に失われており、主体は江戸時代の墓地であった。

 これら江戸時代の墓は50基以上に及んだが、出土品から見て、17世紀から18世紀前半頃のもので、地元では全く忘れられていた墓地であった。ただこの墓の一帯では、14〜15世紀頃からの村が存在していたようで、当時の鍋や碗・擂鉢などのかけらも出土した。この頃の人々が食料とした貝の殻が貝塚をも、形成していたのである。

 その一帯に室町期の備前焼の壷破片が多かったのは、それらの壷を火葬骨蔵器として埋葬していた墓地に、江戸時代の墓地が重ねて形成されたからである。しかもその一帯には中世貝塚もあったことから、人骨の保存が、随分良かったといえる。

 何時の時代であれ、貝殻を含む土中に埋められた人は、たとえ骨だけであっても、私達は対面できる。性別も分かる。今頃でこそ近世・近代が、当然のこととして考古学の調査対象となっているが、30年以上も昔の当時は、近世墓などは、大名などの墓以外、調査の対象にもならなかった。

 しかし私達にとっては、ここに現れた江戸時代人と、すぐ東の地域から発見された船元貝塚出土の縄文人と、差別する理由は全く無い。同じ人間だと言うような、格好つけた理由だけではない。この江戸時代人の生活と、縄文時代人の生活とどちらを良く知っているか、と問われたら、何が答えられるか、ということである。

 真摯に江戸時代人と向き合った結果の一つが、この「まんだら模様」の図柄にもなった。

 当時の田舎の、一村落に生きた男女の、それぞれの最後の持ち物がそこにある。六道銭とも三途の川の渡し賃とも云う銭の副葬は、単純に六文かと思っていたが、それぞれに違う。当時の人は、送り出す人のそれぞれの持ち物に、どのような思いを持っていたのか・・・・

 若干の銭の他、多くの人には碗か皿がある、剃刀や鋏がある、一文の銭もなく鋏だけ持った男も女もいる・・・・やはり曼荼羅の世界なのか・・・・

 ただ現代の多くの人には、六道銭も三途の川も全く無縁のことかもしれない。葬儀に関わっている若い人の中には,六道銭を知らなかった人もいた。一応一般的な辞書には載っている言葉なのだが。


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