(74) 卑弥呼の真珠(朱)と鉛丹

鉛丹塊に彫られた奇妙な品
(上)表面 (下)裏面  径約7cm
 前回の「よもやまばなし73」では、少々脱線した話だったが、古代の「赤い色」を話題にした。その材料である赤色顔料と言えば、原料が水銀に由来する鮮やかな水銀朱と、鉄に由来する弁柄と称されている両者がある・・・・・このようにわが国での古代の赤色を語るときは、説明される。

 確かに古代寺院の建造が始まり、寺院壁画などが現れるまでは、縄文・弥生時代はもちろん、古墳時代の赤色の材料は、考古学資料の分析などから、水銀朱と酸化鉄の系統だとされている。

 ・・・ところで、邪馬台国の卑弥呼といえば、この「よもやまばなし」を見ていただいている方々にとっては、古代史上の女性としては最も馴染み深い一人ではなかろうか。そうして「卑弥呼の鏡」と言う言葉も、同様に説明を要しない言葉であろうと思う。

 古墳発掘のニュースをマスコミが伝えるときには、この言葉がタイトルで踊っている事が多い。『魏志倭人伝』中では、卑弥呼が魏より贈られた品々の中に、鏡百面と記されていた。わが国の古墳出土の鏡の中には、中国からの舶載品が相当数あり、卑弥呼が魏に使いを送った前後頃の、魏国の年号を鋳出した鏡もあることから、何がこの卑弥呼に贈られた鏡だったのかが、繰り返し話題とされるからである。

 しかもこの話題の中心は、まとまって大量に発見されることの多い、三角縁神獣鏡と呼ばれた鏡に集中しているともいえる。実はこの鏡は、中国製ではなく日本製だと言う説もあり、こうした議論が、いつもマスコミで大きく取り上げられていることは、多くの人々が、卑弥呼と古墳の関係に強い関心を持っている表れでもあるだろう。

 しかし今回、タイトルにあげた卑弥呼の「真珠と鉛丹」などはまったく初お目見えではなかろうか。実はこの言葉、卑弥呼が魏から贈られた種々の品々を列記した、『魏志倭人伝』中の記述で、鏡に続いて記されている品が、この「真珠鉛丹各五十斤」なのである。

 文面その他から真珠は真朱と考えられている。真朱は水銀朱、鉛丹は、字のごとく鉛の化合物である赤色顔料なのである。贈り物の中で、鏡ばかりが注目されて、少々不公平な気もするのだが・・・・とはいえ水銀朱は、古墳などから大量に発見される例もあり、わが国での産出もあって、各地で使用されているので、鏡のように検討はしにくいということもある。

 鉛丹は現在まで、古墳時代にわが国での使用はまったくわかっていない。またわが国での天然の産出も、無いに等しいということである。ただ法隆寺の壁画などには用いられ、東大寺で、大仏製作時などには、鉛を焼いて丹を作っている。正倉院にも、鉛丹は収納されている。中国では古代以来、水銀朱ともども薬用などにも利用されている。

 いったい卑弥呼の時に魏から贈られた鉛丹はどこにいったのか。古墳から鉛丹が出土したら、卑弥呼に最も近い古墳と言えるのでは・・・・

 考古館の創設時に近いころ、展示品はいろいろと、借用・購入も含め集められていたが、その中には、出土地はもちろん、真偽のほども不明なものも含まれている。写真に示した朱塊に彫られたものもその一つである。出土地も、物の由来も全く不明である。ただ共にあったものは、現在展示している、石製模造の鑿や?だったが、これらが同時出土品という証拠は、全く無い。写真に示した本品は、表面の状況は土中にあった物のようではある。

 直径は7cmばかり、一見石製盒の蓋に似るが、裏の作りがない。大きさの割りには重く、やや橙色を含む鮮やかな赤の、均質な朱塊である。材質は分析してもらった結果、90%以上鉛で、かなり純度の高い鉛丹だったのである。堆朱でもない。
 鉛丹は、近年では光明丹ともいわれ、鉄の船舶の喫水線下に塗られた塗料などにも用いられている。この奇妙なもの、時代は一体いつのものなのか?・・・・江戸時代には鉛丹は薬にも用いられているようだ。

 この鉛丹製品本当にわが国の古墳から出土したものなら、あるいはそこは卑弥呼の墓だったのでは・・・・

 出自が全くの不明品というだけでなく、形態的にも不明品のため、一度も展示したことは無いが、これも今となったら、赤い「蔵わらし」かもしれない。


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