(75) 三彩壷の想い

伝津山市出土の奈良三彩壷
 幾年か前のこと、たまたま考古館入口付近にいた際、館から出てこられた中年の男性に、外にいた同行の人らしい人物が、「こんなところに何かありましたか」と聞いた。こんなところとは、一寸ひどいなと思ったが、「三彩の壷がありましたよ」考古館から出た人の答えだった。「ええ・・そんなものが・・それは見なければ・・」急いで外の人物は考古館に入館・・・・この壷のおかげで、数少ない考古館の入館者が1名増えたということ・・・・

 この人が、中国の三彩陶を意識したのか、わが国産の奈良三彩を期待したのかは、知る由も無かったが、三彩の壷と聞いただけで、こんなところと思った小さい田舎の考古館へ、入る気になったということは、焼物に造詣深い人だったのだろう。

 この壷については、この同じホームページ中の展示品説明でも簡単な解説はしているが、その由来や詳しい説明は、『倉敷考古館研究集報 20号』にある。1988年出版だが、考古館にはまだ残部があるので(\1500)、一寸宣伝しておきたい。

 この壷は、考古館で展示を始めるや否や、国の重要文化財に指定された。ただ当館の解説ラベルには「国重文」と記載していない。考古学者でもあり、博物館関係者でもあった友人が、「ここは珍しいことをするのだね、他所の館では、国重文といえば、それを一番に宣伝するのに、ここのラベルには何も書いてない」といった。皮肉で言ったとは思えなかったが、確かにそうである。

 当館では、どのようなかけらの資料についても、それぞれに意味と価値があると思って展示しているので、ついこの壷に対する、世間の評価を忘れていたと言える・・・・・とはいえ、初めてこの壷の写真を見せられた時、このようにとんでもないものが、まだ知られずに存在していたことに強い驚愕を感ずると共に、その価値の大きさには直ちに気付いたので、当館で展示できる努力をしたのである。

 直径がせいぜい7〜8cm以下の、この種の薬壷形といわれる蓋付の三彩壷であれば、岡山県笠岡市の沖にある大飛島の調査に関係したことから、馴染みのあったものだった。大飛島遺跡からは、蓋と身ともに多数出土しているが、蓋だけで数えても、15点近い三彩小壷が出土していたのである。これとても、大変に珍しい出土例なのである。

 しかし示された三彩薬壷形壷は、最大径25.3cm,総高21.3cm、桁違いの大きさであった。奈良時代のこの種国産三彩壷は、それまでに全国でも数点知られるのみであった。

 この壷は信じうる伝えでは、津山市近郊で、1904年頃に、横穴石室から陶棺などと共に、発見されたとのこと。形態などから見て、8世紀の前半のものとみられるが、横穴石室に追葬されていた火葬骨壷だったようだ。岡山県下では、古墳の築造は終わっても、しばらくは一族の火葬骨蔵器を、祖先代々の墓ともいうべき横穴石室に追葬している場合がある。このことは、よもやまばなしの(51)などでも話題にした。ただ骨蔵器の種類にはかなり変化がある・・・・

 正倉院に収められていても不思議でないような、当時としては宮廷周辺ででもなければ手にすることも無かったであろう、大変珍しく美しい大形三彩壷に、火葬骨が入れられた人物は誰だったのか。

 この種壷の出土例は、大阪・奈良での1例ずつの他は、破片の資料を含めて、千葉・神奈川・愛知・和歌山に各一点と、この岡山の例だけなのである。数少ない以上に、決して奈良の都だけのものではない。あちこちに散らばっている。

 この壷の主も古墳時代の終わり頃、津山地方に多数見られる陶棺を収めた、ごく普通の横穴石室墳を築いた一族の後裔であろう。地方の有力豪族だったり、高位高官だったとは思えない。たまたま各地から宮廷や都の大寺院に出仕した者ではなかろうか。しかもその地で亡くなったもの・・・こうした人々は多かったと思うが、なぜ彼か彼女かだけが、貴重な壷にいれられたのか・・・1300年近い後の世に、彼か彼女は、自分の入った壷の珍しさだけが愛でられるのを、心外と思っているかも知れない。

 奈良の博物館における、奈良遷都1300年の特別展に、この壷も出陳される予定である。

 彼か、彼女は再び都へ行くだろうか・・・・・


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