(82) 城が端人の帰郷

 ここで話題とする人物達は、この「よもやまばなし」の(70)「曼荼羅」で、すでにかなり詳しく触れている。そちらも先の(70)をクリックして合わせてご覧頂くと、遺跡の性格が良く分かると思う。この遺跡からこの世に連れ戻された、彼や彼女達は、江戸時代17〜18世紀前半までの人、51人である。

 城が端遺跡は倉敷市の南部児島の一角で、基本的には中世貝塚に、中・近世墓地が重なったものだった。現代では忘れ去られていた墓地だったが、偶然にも中世貝塚と重なっていたことで、人骨の保存が大変良かったのである。

城が端の人々
17〜18世紀前半頃

 2010年からいえば、33年も昔のことである。先の「曼荼羅」の内容と少々ダブルが、当時は江戸時代の墓などについては、大名墓のような著名墓以外は、無視され調査もされなかった頃である。今ではそうした庶民墓の多くが、調査され報告例や研究論文を見るようになり、隔世の感もする。

 この城が端人達は、確認された51人中、男性19人、女性10人、性別判定が不確実な若年2人、子供では永久歯が生えているもの6人、未萌出5人、残る9人は骨の保存状況の関係で、性別は確定できなかったが、少なくともその内の5人は、壮年か熟年であった。幼児のうち新生児らしい人骨が無いようで、新生児は別のところに埋葬された可能性がある。

 これらの人々は、江戸時代とはいえ残された文献や、伝承だけでは窺い得ない、当時の人々の、死者に対する思いや扱いを伝えてくれたのである。

 51人があの世に持たしてもらったものは、腐朽せずに残ったものだけではあるが、(70)の曼荼羅でも話題にしたように、若干の銭や茶碗類に、剃刀、裁縫用の握鋏、毛抜き、刀子などだった。その外は男性で、錫杖を持った人物一人、これも男性で伏鉦一個を副葬していたくらいのことである。

 ただ当時、この地方が所属していたと思われる、備前藩の藩主で、1615(元和元)年没の池田忠継の墓には、若干の銭と床机を伴っただけであり、次代の忠雄も1632(寛永9)年に没しているが、墓からは天目茶碗一個が発見されたのみである。ただ忠雄の場合、遺骸が駕篭で運ばれてきて、その駕篭の柄を切っただけでそのまま、石棺内に収められていた。

 このような時代であり、城が端の人たちの中にも、全く何も持たぬ人が、男7人、女3人で、子供は11人の中7人。皆の墓は、一見同じような円形か方形の座棺だった。しかも男女の墓が対になるとか、家族が一団となっている墓域などは、確認できなかったのである。

 こうした中で副葬品のあるなしは、社会風潮だとか、故人の意思などというもので無く、やはり村内での格差と見るべきだろう。子供の中にも、永久歯が生えた程度の子で、大人よりも多くの銭を持った子もいた。

 また裁縫用の握鋏を副葬したのは6例だったが、内4例が男性、2例が女性だったのである。一方剃刀は5例中4例は男性、他の1例は性別の不明成人である。故人が日常使っていた道具を持たすとか、女性が男性のために自分の日常の道具を添えるというような意志から起こった習慣かもしれないが、故人にはなにか日常の道具を持たさねばならない、というような習慣のあったことを思わすのである。

 いま一つ彼らの中で気になるのは、女性の少なさである。男性の半分に近い数でしかない。性別不明人骨が、全て女性ということは割合から見て有り得ないだろう。1751(宝暦3)年、この地に近接して新田の粒浦村が出来た時、この遺跡辺りの粒江村から新田へ移住した人々の宗門改帳がある。それによると男103、女91 である(『倉敷市史 3近世(上)』2000年3月参照)。一割ばかり女が少ないが、城が端の墓地のような差ではない。この点は何故か、まだよくわからない。

 縄文時代にはこの遺跡の200mばかり東にある、著名な粒江の船元貝塚では、他の周辺貝塚とは異なって女性の多いことを、この「よもやまばなし」(43)の「女護が島?」で話題にした。ずいぶん離れた時代のこと、まったく無縁のことながら、不思議な男女構成を示すこのあたりの遺跡である。
 
 この城が端人骨たちが、最近倉敷へ帰郷した。30余年前には、考古館から出て行ったのだが、今や帰っても考古館には入るところが無い。むしろ故郷により近い、倉敷市の埋文センターに落ち着くことと成った。まだ挨拶には行ってないが、先方は、きっと自分を掘り出した人間とは思わないだろう。こちらだけが30年、歳をとっているのだから。

 彼らに当時の本当のことが聞けるものなら・・・・・こちらの仕事はなくなるか・・・


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