(83) 本邦初の新発見

倉敷市浅原安養寺裏山経塚群
(左)新発見の第三瓦経塚、粘土塊化
(右)第一瓦経塚抜き取り跡
両者はこのように近接して埋納されていた
 考古学関係のニュースでは、しばしば「・・最初・・」とか「・・新発見」とかの見出しが躍る。しかし本当の「本邦初の新発見」などということは、めったなことには無い。考古学関係者で、こうした幸運にめぐり合わした人は、これまた極めて珍しい。というより考古学は、研究者の研究法や、意志・能力・行動などが、直接遺跡や遺物の新発見に結びつくものではない研究分野。

 研究者による新発見にしても、その多くは、偶然の結果や幸運によるものがほとんど。研究者は、そうした新発見を踏まえた上で、次のステップを築く事が本来の仕事なのである。「新発見」や「最古」を追うのは、むしろ部外者の宝探し的な興味に過ぎない・・・と、一応立派なことはいえるのだが、誰しもその幸運を願わぬものはいないだろう。

 まして世間は、ロマンと言って、新発見・・、最古・・が好きなのは当然。ところが、偶然にも考古学研究の端につながるものが、この嘘も誇張も無い「本邦初の新発見」に出食わしたのは、半世紀以上も前の1958(昭和33)年のことであった。

第二経塚の経筒
 倉敷市街地の北方にある福山の、山腹にある浅原の安養寺から、寺で必用な石を裏山で採掘中、壷のようなものが出たとの連絡で、現地に訪れたのがきっかけだった。そこはかつて1937(昭和12)年に、きのこを採りに行った寺の人によって発見され掘り出されていた瓦経の出土地あたりだったのだ。しかし当時はすでに、かつての瓦経塚がどこであったかは、完全に忘れられていたのである。

 その時、石のへりから発見されたものは、左の写真に示したような瓦質の経筒で、総高は約36cm、周辺の石は小形の石囲的な石室の部分だった。古くにこの小石室は破壊されて半欠状況だったが、先の経筒の他に、高さ17.5cmばかりの誕生佛(上に伸ばす右手を欠損)や、鉄製刀子、青白磁の盒の小片なども発見された。これは一般的な形態の紙に書かれた経典を収めた経塚だったのである。

 1937年発見の瓦経塚資料は、全国的にも極めて数少ないもので、内容も良く保存されていた。法華経一部八巻と心経一枚に仏像を描いた瓦五枚、土製塔婆形品8本、これは法華経の題箋になっていた。それに瓦製宝塔1基。この資料は、すでに国重文に指定されていたのである。この瓦経塚を第一経塚とし、1958年に発見された先の経筒使用経塚を第二経塚と呼ぶようになる。

 実はその後が大変だった。急遽第二経塚を調査中、地形測量をしていた時のことである。たまたま山道の脇で、小さい土層断面を見せた部分に、山土とは明らかに質も色も違う、粘土らしいものがあるのに気付いた。

 このような場所で粘土とは不思議なことと思い、周辺の草や土を少し掻き退けてみると、どう見てもかなりな粘土塊である。古墳で粘土槨が露呈していることは有るが、この山では古墳のある地形ではない。山土と粘土塊の境は明瞭である。いま少し粘土面を掃除してみようとして粘土面に触ったとき、小さい粘土塊が簡単に2〜3片欠け落ちた。

 おやと思いそのかけらを手にとって見ると、粘土の上に、微かながらも文字らしい細い線描きが見える。

 一瞬目を疑った・・・慌てて他の欠けらを見ると、なんだか全てが同じ厚さのかけらのようである・・・・しかもやはり文字らしいものが・・・それではと、いま少し粘土塊を探ると、やはり同じ状態である・・・・

 この寺の裏山では、かつて瓦経が発見されている・・・・あるいはこれも、その仲間?・・・との思いを強くしたが、なぜこれは粘土だ?・・・しかもかなり大きな粘土塊である・・・周辺を探っていたら、土中にはかなり欠け落ちた粘土の小塊があったが、その中には、僅かだが焼けて瓦と化した部分があった・・・瓦経の焼き損じ?・・・・・・

 これがまさに本邦初の新発見だったのだ。そうして研究者の手で発掘調査された、最初の瓦経塚となったのである。この瓦経塚についてはこの「よもやまばなし(9)写経」にも触れているのでここをクリックして参考にしていただきたい。

 その頃までに発見されていた、全国での瓦経塚は僅かに25例ばかりである。しかもそれらは古くから、一般人士の偶然の発見であり、本体に経文が書かれていることから、散逸したり、乱掘されたりしたものばかりである。研究者の手で発見された瓦経塚は、皆無だった。また研究者が発見しようとしても、埋納場所が固定できる状況が無い遺跡である。

 安養寺での発見は、瓦経が焼け損じで、粘土化していたおかげで、一般の人には注目されず、逆に私たちの目に止まったということになったのだ。まさに怪我の功名。現在は国指定になっている、第一瓦経塚が発見された後、多くの好事家が周辺の山を探したり掘ったりした事が、伝えられていた。よく焼けた瓦経だったら当然そうした人々に発見され、散逸していた可能性は大きい。

 焼け損じでも瓦経塚、もし知れるとまた何が起こるか分からないので、目立たぬように石と土で保護し、正式調査の準備をしたのである。完全な緘口令の下に・・・

 ほぼ半年の後に、当時わが国では、寺院や経塚研究では第一人者の奈良国立博物館長だった石田茂作氏の指導で、調査が始まったが、何分にも世間では何のことか良く分からない粘土塊、大して話題とはならなかった。石田先生の講演会などもしたのだが。

 その後現在までも、瓦経塚といえるものは全国で30例あるなしであり、埋納状況が分かる遺跡での発掘調査例は、その後では、佐賀県の築山瓦経塚がただ一つである。しかしこれも発見は工事に伴うものだった。

 安養寺の第三瓦経塚、まだ唯一考古学関係者発見・調査の瓦経塚のタイトルは失っていない。しかしその後、私どもは奇妙な姿の新発見物、この粘土塊と長く格闘することと相成ったが・・・それは次回に・・


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