(84) 新発見品との格闘・迷走

 正真正銘の本邦初の新発見遺跡であり、遺物であったとは言え、倉敷市にある安養寺裏山出土の瓦経塚で、粘土塊に化けた経典、掘り出すときから調査者を大いに迷わせ困らせた新顔だった。

 この瓦経塚は、発掘によって、横19〜20cm、縦22cmばかり、厚さ2cm前後の方形瓦に彫り込まれた経典が、立てて7列に並べられたものが2段積みにされ、1,5m×1,1m、高さ40cm前後の粘土塊となって残されていたことが分かった。しかし何分にも土の塊で、その場で1枚づつ瓦がはがせるものではない。さてどうしたものか?・・・・

 いかに経塚研究の大家石田先生にしても、我々同様、こうした現場はまったく始めて。あれこれ迷案の出る中で、先生まで「粘土塊の周りで焚き火をしたら焼けるのではないか」など言われ出し、「それは無茶ですよ、全体が焼けずに皆ぼろぼろになりますよ」と言うような話も出たり・・・ともかくゆっくり考古館内で剥がす外は無い、ということに決着。

運搬用台座に載った3分割された粘土塊の1つ。 ここには塔婆形と円盤形の瓦製品があった。
 そのままで運び出さねばと言うことだった。しかし現在のように良い重機があるわけでもなく、山中でもある。ついに粘土塊を3ブロックに鋸で引ききって、木枠に載せ、担ぎ下ろしたのである。

 ただ鋸で切ったといっても、こうした経験は始めて、先ずは何処で切りはなすかが問題だった。瓦経の内容に一番被害を与えない方法・・・・万一切り離しや、運搬途上で切断部が、崩れたり壊れてしまう部分があっても、どこかに一枚の瓦経の関連部分が残るようにしなければ、ということで、瓦経の並びの列の境目でなく、思い切って瓦経の真ん中を切ったのである。これだと何か事故があっても片方が残ると言うことだった。完全な形の瓦経を半切することは、かなりな決断だったのだが。

 粘土ブロック3個は大きな崩れも無く、無事に考古館に収まり、運搬時の破損は杞憂に終わった。・・・・・兎も角ぼつぼつと竹べらではがしていったのである。しかし剥ぎ取りは、やや乾いた小さい粘土のかけらになる状況だった。この時、瓦経を半切した部分では、むしろ剥ぎ取りやすい状況であり、表面の破損を少なくしたのである。後に経典検索にも扱いやすいものになったのである。予想外での半切効果だった。

 ところで破片となって剥ぎ取られた瓦経のかけらを、何で接着するかも問題。基本が粘土というか、土と土同士の接着なのである。そのまま普通の接着剤では付く筈が無い。粘土塊を全面硬化すれば接着できるが、表面まで硬化すれば、今度は表面が掃除できず、かすかに残る文字の刻線が読み取れなくなる。

 結局は、接着力の弱い、澱粉質のものを煮た程度のもので防腐剤が入った、文房具店などで販売している何処にでもあるような糊を、すこし薄めるくらいにした状況で、軽く接着したのが正解だった。

 次は表面の文字をどうしたら読めるか、瓦経表面は互いが密着していたり、泥や細かい草の根などの付着物で覆われていたり、しかもひび割れも多い・・・洗うと溶けるし、表面の掃除をしないとほとんどの文字は何かも分からない。

半切された瓦経上で、よく読めたものの一つ。
次回で説明するが、下段のほぼ中央にあったもの。経典は仁王経巻上の3枚目裏に当たる
 これも試行錯誤の後、柔らかい穂先の筆に水を含まして、表面を溶かしてしまわないよう細心の注意をしながら、ゆっくり表面を掃除した。そうした一方で、筆からの水分が、僅かに残る文字の細線に入ることで、そこに現れた線描きを、そのまま意識せず紙に書き取っていき、文字かどうかを判断していったのである。もちろん中にはそのままでもかなり読める、幸運な保存のものもあったが、ほとんどに、手こずらされた。

 こうした作業は細心の注意が必要ながら、馬鹿ばかしいとしか言いようの無い単純作業の、繰り返しの毎日が続いたのである・・・・考古学などロマンではない、馬鹿で根気だけはある者でなければ出来ないということを、地で行った一つの典型であった・・・・

 弥勒菩薩出現時のために、埋納された経典を、無信心者が勝手に経典を掘り出したバチなのか・・・まだまだ苦行は続いた・・・

 もう一話この話は続くが、もし続いて見てくださる方があれば、その方はりっぱな考古学者になれます・・・・決して馬鹿などというのではありません・・・読んで下さるというその根気に、心より敬意を表しているのです。


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