(85) 習わぬ経を読まされる話

 習わぬ経を読むような、門前の小僧とまではいかなくとも、多少なりとも仏教経典に関心を持っていた者ならいざ知らず、我々のような全くの無信心ものが、仏教経文と格闘する破目になったのは、前回・前々回と話題にした安養寺第三瓦経塚発見のためである。

 粘土塊からの文字判読に苦労したが、これからがこの経塚整理中の最大の難関だった。僅かに点々としか判読できていない文字配列から、個々の瓦経面に書かれていた経典は何であったかの同定である。

 経塚に埋納される最もポピュラーな経典は、法華経である。安養寺第一経塚でも、経典は法華経と心経だった。これはよく焼けていたので、内容は現在の経典とまったく同じであり、しかも瓦の大きさも粘土化した瓦経とほぼ同じで、表裏に枠を持つ罫線で10行が引かれ、各行には17字で経典が書写されていた。しかも右の枠外に、今で言うページ(丁付)まで書かれていたので、経典の内容など全く分からぬ者にでも、瓦経典の整理はできる。

(左上)7列2段で埋納された下段での経典配置状況
(左下)2列目断面での配置状況
(右)発掘時、遺跡で上面から瓦経配列状況の確認、瓦経境を白線で区画している


 粘土塊から取り出した瓦経には、7列2段並びのどの位置であったかの記号を付けている。経典検討で、やっと分かってきた法華経の存在だったが、この瓦経では200枚余にわたる枚数になる法華経は、出土位置と照合すると、まるでトランプのカードでもきったように、全くばらばらに埋納されていたのだった。ただ文字の向きだけは、法華経に限らず、全ての経典が上向きだった、というだけであった。埋納時に経を本来の形にする意思はなかったのだ。

 全ての瓦経と言ったが、実はこの第三経塚では、法華経を入れて、10種からの経典やその他が埋納されていたのである。現在国指定となっている第一経塚より、はるかに内容の優れたものだったのである。ただそれだけに法華経以外の経典を見つけるのは、並大抵ではなかった。普通に焼きあがっている瓦経でも、細片になっているものの経典同定は大変な手間がかかるのである。

 考古館などには経典など何もない。しかも半世紀以上も昔の話である。もちろんコピー機などの無い時代。現在ならインターネットで、全文検索の出来る、『大正新修大蔵経』は、身近なとこでは、戦災の中で残った旧第六高等学校の蔵書を引き継いでいたと思われる、岡山大学の図書館に蔵されていただけだった。

 恩師に頼み込み、100冊にも及ぶような大部の中から、経塚に関わりそうな経典部分を検索、禁貸出本を先生を通じ内緒で借りることを繰り返し、幾度大学に通ったことか。そうして関係経典は、こちらが写経するしかなかった。余談となるが、仮綴版であったこの本のページで、未開封のものがかなりあり、それらをペーパーナイフで切り開いて見たことを思い出す。

 ともかく、瓦経上の一字ずつと経典との照合で、平安時代から現代まで、経塚に写経されたような経文は、いかに全く変化してないかが、よくわかった。それと同時に、自分で写経してみて、安養寺で瓦に経典を書写した人が、一字一句もおろそかにしない、全く間違いをしてない人・・おそらく大変まじめで几帳面な人で、校正もしっかりしたのだ・・と思い知らされていたのだ。

 ・・・ところがである、とうとう几帳面真面目人間の間違いを見つけた・・・おそらく男性の僧侶であろうが・・・・彼も同じ人間だった・・・少々瓦経整理にうんざりしていた時、仲間を見つけた気がしたのだが・・・・

 それは法華経巻五の第十四安楽行品が二重にだぶって書写されているのを見つけたときである。しかも今までは、現代の経典で割り付けた行と、全く違わずに書写されていた経文とは、二行のずれがあるものだった。

 ・・・・しかしこの現象は、はじめて平安時代と現代の時間差を、整理者に見せつけたものだったのである。かなり保存の良い瓦経で、初行に経名らしい「法華三昧行法」の文字を見つけたことで、『大正新修大蔵経』中には見られない経典の出現となったのである。その中には、法華経の安楽行品がとりこまれていたのである。

 天台宗では「行」を行う時に修する『法華三昧懺儀』と『法華懺法』があり、ともに『大正新修大蔵経』に収録されているが、瓦経の経典は、この両者に似ているが、異なるものだった。この時期までにはこの種、行に関する経典は、経塚埋納経典中には知られてなかったのである。

 またこのとき発見された『法華三昧行法』は、現代に伝承されている経典中に本当に無いものなのかも、大きな疑問だった。なにぶん専門外なので、当時石田茂作先生に尋ねてみたところ、「そのうち叡山の庫裏からでも出てくるかも」とおおらかな話であった。

 その後に、こうした行に関わる経典が発見された経塚が一つあった。それは先にも触れた、佐賀県の築山瓦経塚である。ただここでは『法華懺法』であった。

 ところで第一瓦経と第三瓦経の文字は、極めて似ており、共に間違いの無い几帳面で正確な文字であった。他所の瓦経塚では、文字数の出入り、癖字などもあるが、安養寺の書写者はそれがない。修行の届いた一人の高僧?の写経だったのだろうか。無信心者などに、仲間呼ばわりされたことも、意に介してないと思いたい。

 この瓦経調査では、苦労ばかりのように述べてきたが、経典検索も終わりに近くなって
    「于時応徳三年春二月於安養寺・・・・」
 に出くわし、これがこの瓦経塚作成の願文を記した瓦で、書写日時と場所だと分かった瞬間から、その日は終日仕事が手に付かなかったことは、さきにも「よもやまばなし(9)」で記したとおりである。

 一日中、理屈抜きに、ただただ嬉しかったことが、経典を読んだ功徳だったのか・・・・

 ・・・しかし当然、書写した人物名が記されたあたりは、保存が悪く判読できなかった。半年以上も連日向き合った相手は、ついに名を明かさなかったのだ・・・・


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