(87) 白鳥と生首

考古館東横 かつての水路の末端、今では睡蓮が植えられた庭池状となっている。水量の多いとき倉敷川で飼われている白鳥が迷い込んだ
 このような猟奇的な題名は、少々気分の悪い事なのだが、そこに白鳥を見たとたんに思い出したのが、「生首」と言う言葉だったのは、この話を60年近くも昔ではあるが、初めて聞いた時の印象が、強かったためかも知れない。

 少し前の事だが、6月の終わり近くの朝、倉敷考古館に出勤した時の事である。考古館のすぐ前は道を隔てて倉敷川があり、江戸時代以来、かつては考古館の東にも水路があって、倉敷川に合していた。そこに架かっていた橋については、この「よもやまばなし(29)」の「小橋が大橋になった」でも話題にしたので、先のところをクリックしてみていただければ分かるが、ともかく現在は、暗渠となった水路が川に合流する部分だけが、小さい池のようになって、かつての川の面影と言う事に修景されている。ただここには、今も以前の石の樋門は残されており、倉敷川につながっている。

 この小池のような水面には、普段は何も入ることなく、この時期には、修景で植えられた睡蓮が、小さな花をつけていた。ところがその朝、白鳥がそこに入り込んでいたのである。この白鳥は、倉敷川で飼われている二羽の白鳥のうちの一羽だが、川からは樋門があるので、この小さい水面に入っているのは見かけない。時に水量が増えた時は、樋門の上を水が越すので、入る事は出来る。

 その朝はたまたま水量が多かったので、入り込んだのであろうが、水位が下がって、出られなかったようだ。この白鳥は、関係者の人が数人で、樋の板仕切りをはずしたり、餌でおびき寄せたりで、1時間もしないうちに無事倉敷川へと、帰ったようだった。

 何でもない、身近でちょっと起こる小さい事件。ただいつもの事で、カメラを持ち出し白鳥をファインダーで追った時、頭をよぎったのはあの元治元(1864)年の事件だった。

 ・・150年ばかり前「生首」が浮いていたというのはここだったはず・・

 考古館に勤めだしてすぐの頃、まだ言い伝えられていた事件の話を聞いた人から「考古館の横の水路には幕末の騒動の時、生首が浮いていたのだ」と言うことを聞かされていたのだ。

 入る筈の無いところへ白鳥がいた事で、半世紀以上見つめてきたこの水路の変遷、その末裔の姿へ改めてカメラを向けたことで、この水路の歴史のかなたに、白鳥に姿を借りた下津井屋の首が現れたのかもしれない。

 倉敷では、地域の歴史に興味を持つ方々の中には、「下津井屋事件・倉敷代官所襲撃焼討事件・浅尾藩陣屋襲撃事件」と幕末に起こった当地の事件を、詳しく知る人も多いであろう。しかし幕末の社会が尊皇攘夷や倒幕や長州征伐などなど・・各地で大きく揺れ動く中で史上に知られる大きな事件は多く、こうした事件やその遺跡に興味を持つ人も多いであろうが、現在倉敷を訪れる人々には、倉敷での幕末の血なまぐさい事件は、ほとんど知られてないのではなかろうか。『新修倉敷市史4 近世(下)』(2003.3)を借りて、ちょっと事件を追ってみよう。

 問題の下津井屋事件は、元治元(1864)年12月18日夜、現在の倉敷民藝館の川向こうに当たる位置にあった下津井屋の屋敷が放火され、隣接の借家も含め全焼した事件である。その焼け跡から、下津井屋当主父子の焼死体が発見されたが、それには首が無く、首は向市場の内樋の上の水路に捨てられていたとされる。ここが先の小池状になった考古館の横のあたりと、言い伝えられていたのである。

 こうした事件が起こるには、米の買占めなどを廻る、地域でかなり根深い対立があったようだが、これにつよく関わったと見られる人物が、このとき前後に倉敷から姿を消している。この人物は後に長州の奇兵隊にはいり、この中で、倒幕に急進的な一派に属し、彼らは奇兵隊の脱走者とされている。しかしこの一隊は倒幕を掲げ、慶応2(1866)年4月10日の未明、倉敷の代官所を襲撃し焼き討ちしたのである。倉敷のすぐ北に接した浅尾藩の陣屋を襲撃したのは12日である。

 尊皇攘夷の理想を掲げた行動も、焼き討ちされた倉敷代官所では、代官は出張中、ここでの死者は足軽や門番や下女、当日宿直当番だった地元村役の息子たち四名などの8名だった。浅尾陣屋でも足軽・百姓を含む6名だったようだ。

 倉敷ではこの時、襲撃側が、一発の鉄砲を撃ちかけての要求だったというが、今も考古館の家主である小山家と、後にクラボウを起こし、大原美術館を作る大原家はそれぞれ700両、現在大橋家住宅として公開されている大橋家では1000両の軍資金を供出したと、『新修倉敷市史』には記されている。

 こうした一連の事件も、先の下津井屋事件と無縁でない、というのが倉敷での風聞であったようだ。

 この倉敷代官所などの焼き討ちは、広島に在陣中の幕府軍などの進発となり、襲撃隊は早々に逃げ帰るが、長州では彼らを奇兵隊脱走者として、倉敷に関わる人物も、同じ奇兵隊の手で討ち取られるのが、4月の26日だったという。捕らえられた多くの隊士たちも死刑となっている。倉敷に関わる人物で、倉敷襲撃の中心人物だった彼も、倉敷での行動では、地元の一般人士には、随分気を使っていたように伝えられているが・・・

 幕末の動乱、新撰組も奇兵隊も歴史となってしまうと、ロマンのように語られるが、血塗られた内紛はつき物、大小の違いはあっても、各地でこうした騒乱が繰り広げられ、それには無縁の多くの人を巻き込んでいる。何時の時代も変わらない現実である。

 僅か150年ばかり前、今もその時と、外観のほとんど変わらない考古館の倉の横や、その周辺でも、こうした血生臭い歴史があったことは、観光客は知らない方がいいのだろうか。・・・白鳥が泳いでいるほうが良いのであろうか。


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