(89) 考古館所在地の江戸時代

宝永7(1710)年の倉敷村屋敷割図・考古館所在地部分  (上)原本 (下)解読
 現在の中橋は新橋と記入されている
(新修倉敷市史・13付図より)
 倉敷考古館の受付で聞かれる、最も多い質問は「この建物は何年前のものですか」ということである。誰が見ても古い造り、今頃ではそれが倉造りと意識しない人もいるようだが、ともかく古いものと感じての質問であろう。

 「はっきりしないのですが、200年くらいは前だと思います。」と答えることにしている。

 その答えが、質問者の意識していた年代観にとって、古いと感じたか、新しいと思ったかは人それぞれであるが、それが江戸時代だということは、考古館を見て下さる人ならだれしも理解されている。

 この「よもやまばなし」13話には考古館の倉に関して明治17(1884)年の出版物を引用して、その頃以後の倉について記載しているので、さきの13をクリックして参考にしていただきたい。

 また先回の話題では、この倉の横での事件のように、語り継がれているのは、明治17年からは僅かに20年前ではあるが、江戸時代の元治元(1864)年のことであった。この倉は150年ばかり前には、今も考古館の家主である小山家(浜田屋)の倉として現位置にあったとみて、間違いないだろう。

 ところでそれ以前についてのこの場所の明確な資料としては、庄屋小野家に伝えられていた絵図(新修倉敷市史第10巻付図)宝永7(1710)年倉敷村屋敷割図がある。一度に300年も前に遡るのだが、この絵図では、考古館前の「中橋」は「新橋」と記入されている。

 1673年の記録には、この橋はない。この橋が初めて記録に顔をだすのは元禄8(1695)年であり、おそらく元禄の早い時期に架けられたのであろう。もちろん今のような石橋でなく木橋である。この橋は1710年にはまだ新橋だったのである。1777年の記録にも、まだ新橋と記されているが、1795年の記録で、やっと「中橋」になっている。80年ばかりもかかって、次第に人の呼び名が、下の前神橋と上の今橋の中にある橋になったのであろう。

 新橋より前からあった今橋は、大原美術館前にかかる橋だが、架け替えられても今に至るまで「今橋」である。こうした自然発生的な名前は、痛痒がないかぎり、いつまでも継承されるものだろう。ところが橋と橋の中に新たに架けられた「新橋」は、何時までも新橋というより中橋のほうがわかりよくなったのであろう・・・橋の話が少々詳しくなりすぎたが、考古館の景色では切り離せない橋なので蛇足ながら・・・

 問題の1710年の絵図では、考古館の倉の位置には、「二郎兵衛借家・甚四郎」と有り、小さい借家に甚四郎さんが住まっていたようで、倉などでない。後の小山家本宅あたりには、「貝屋三野右衛門」「油屋九郎右衛門」「同人借家」などと書き込まれている。他にも旧小山家敷地内には借家がある。小山家(浜田屋)はこの時期には、まだこの地にはいないのである。

 考古館の倉の建築を、何時とするかは、はっきりしないが、先にみた150年前に50年ばかりプレミアムを付けたということである。これもただいい加減に50年のプレミアムをつけたというのではない。

 倉敷の町家では、18世紀の終わり頃から、19世紀の前四半世紀頃にかけて、新旧の勢力交代がある。幕末にかけて勢力を伸ばす家は、その後に新しい大きな屋敷を構えてくるようになったようだ。たいへん大雑把な言い方ながら、現在の倉敷川河畔をめぐる町屋の原形が完成するのも、それ以後ということのようである。小山家の屋敷も大きくなり、現在考古館使用の倉が建てられたのも200年ばかりは前だろうということなのなのである。

 また考古館所在地を含め、倉敷川畔の北岸と東岸の一定の地域には、倉敷最古の検地帳、慶長14(1609)年の記載では「水夫(かこ)屋敷」とした免税地があった。これは江戸時代の造園家として著名な小堀遠州の父が、当時幕府の備中代官(備中国奉行)で、慶長6(1601)年この地に水夫役を命じたことで、免税地となったようだ。1637年の島原の乱の時などは、倉敷村では、150人の水夫を出しているという。

 以来この水夫屋敷地では、屋敷の間口に応じて、代官が京・大坂へ往復する経費ということで、その水夫入用費用が徴収されていた。ところが江戸時代の間には、倉敷は時に幕府支配でない時期がある。その時は水夫役の役銀を年貢に当る地子銀(じしぎん)として収め、また幕府領になっても続けて収めている。

 1744年に、その金額は倍増されたようだ。それでも他の年貢に比較すると7割弱だと推定されている。税金が一挙に倍増されたら、現在の消費税倍増問題ではないが、何時の時代でも問題が沸騰すると思われるが、これは当時として問題にならぬくらい、すでに一等商業地となっていた「水夫屋敷」は、ずいぶん税制優遇をうけていたということだろう。この水夫屋敷地は江戸時代中続いたのである。(永山卯三郎編著『倉敷市史』1973,6参照)

 倉敷村の出発が、瀬戸内にも通ずる海運に支えられたことの証が、水夫屋敷の名称であろう。考古館の倉の歴史も、倉の建設時期の問題に関わらず、この水夫(かこ)屋敷内に存在したことからはじまるものと思う。


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