(9) 写 経

安養寺第三経塚
粘土塊化した瓦経。立てた平瓦二段積状況の断面。上段右方に色の違う瓦がある

 いま写経が流行っているという。多くの人が何経を写経しているのか知らないが、現代も「般若心経」に人気があるようだ。この経典のフルネームは「間か般若腹見た心経」・・・失礼これはワープロで出てきた文字・・・本名は「摩訶般若波羅蜜多心経」。

 われわれのような救いがたい衆生にとっては、両者の文字の間にはたいした違いはないのだが、しかし全文でも300文字にも満たぬこの経典は、いまも経文中の「色即是空空即是色」などのフレーズが、世上での慣用句になっているくらい、よく知られた教典だったともいえよう。現在でも諳んじている人は多い。

 ところで考古館の主要な調査の中でも説明しているが、倉敷市浅原にある安養寺の裏山には、平安時代後期の経塚群があった。経塚とは写経した経典を埋納したものだが、こうした習俗が普及したのは、仏教思想の末法思想(釈迦入滅後、世は正法・像法・末法・滅法とたどり、末法時には教理も失われるが、56億7000万年後の弥勒出世の時、経典などが湧出するとの思想)により、経典を埋納するというのが出発だったようだ。しかし末法といっても期間は長く、わが国で平安末期からこうした習俗が広がるのは、古い秩序の崩壊期を末法の世と感ずる人々にとって、浄土願望・現世利益等への願いを込めた作善行為として流行したようである。

 調査を行った安養寺の第三経塚は、不朽の瓦に文字を書いた、もっとも丁重な写経だったはずだが、焼成が悪いため粘土塊に化していた。現代の手抜き工事と同じことか。ともかくそこには十種以上の経典が含まれていたが、この中に般若心経が6枚以上含まれていたのである。

 一面に17字10行書かれた心経の経文は、一枚の瓦の表裏で完結する。6枚以上と言うことは、同文のものが6部以上収められたということである。他の経典は1部のみである。多くの経典は専門職の僧侶による写経だったと思われるが、経塚造営にはかなりな人々が合力することもあり、般若心経はこうした人々の写経だったとも思われる。保存の悪い瓦経だったが、末尾が判読できたのは3部、他の部分の文字は全く同文だったのに、末尾に書かれた経名が、2部は「摩訶般若波羅蜜多心経」、1部が「般若心経」であった。手本の経典が違っていたのだろうか。埋納されていた経典は、900余年も昔のものだが、いずれも今と全く同じと言ってよい。

 今回の写真は、一見したのでは何だか分からないものだが、これは粘土塊化した瓦経の埋納状況である。板状の瓦を二段に立て並べた断面だが、上段右方に色の違う一枚があるだろう。これは心経の一枚だった。瓦まで別のところで作られたものが、加えられていたものだろう。  現在写経が流行るのは、たとえ生活にゆとりがある人にとっても、不安の多い、心を満たすものの無い世であり、いまもまさに末法の世ということなのだろうか。



  7月18日 土 曇時々雨
「・・・絵葉書などの打ち合わせ・・・法華三昧行法というのがでてくる。」
  7月19日 日 曇時々雨
「・・・夕刻ごろ佛名経らしいものが見つかる。」
  7月22日 水 晴れ
「・・今日瓦経の中から年号らしいものを発見。応徳三年春二月於安養寺とある。応徳三年は1086年である。」(この頃経典らしくない一枚の瓦経を解読中。文字の判読はきわめて困難だった。年号らしい文字に行き当たり、この瓦には願文が書かれていたと判明。日記にはただ発見とだけ記しているが、半年近く多くの瓦経の消えた文字と、多くの経典との間で格闘していたので、年号が読めたときの嬉しさは、この日一日、あとの仕事が手につかなかったことを、今もはっきり覚えている。)
  

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