(94) 酒津山の官人?

酒津山出土の石帯
平安時代前半頃の 役人の帯飾り
 左の写真は、タイル見本ではない。考古館の展示品である。すべて石製で、大きな物で4cmばかりの方形。倉敷考古館に開館時より収蔵されている遺物だが、残念ながら酒津山の古墳から出土したもの、と伝えがあるだけであった。

 詳しい資料報告はすでに30年も前の、当館『倉敷考古館研究集報 16号』(1981/6)にあるが、古代の遺物として、一般には、あまり馴染み深いものでもないだろう。しかしこの代物が、多少とも考古学を専攻したり、古代の服飾史に興味を持った人にとっては、奈良時代以来、特に平安時代前半頃の官人たちが、公の場で衣冠束帯に身を正した際、束帯に当たる帯に取り付けられた「石帯」と呼ばれるものであることは、周知されている筈。

 ところで奈良時代初めの服飾令では、腰帯には5位以上は金銀装、6位以下は銅製烏油(黒い作り)の飾りを並べて付けることになっている。それは官人たちの朝服が、唐代の服装を真似たものだったことによるが、実はその唐の服装は、西方の胡服の系統で、腰を革帯で締め、その帯はホ具でとめ、主に金銅製垂飾付の?帯金具を付けているものであったようだ。その飾りも、もとはといえば、腰に重要な割符や小道具の刀子を着けていた名残りが、飾りになったという。

 奈良時代も後半になると、革帯に付けるものは石製飾りが多くなり、方形(巡方)や下方を切った丸形(丸鞆)、革帯の端につける鉈尾形が使用されている。これらも、材質や色大きさなどで、身分を表現しているようだ。

 玉が最高で、瑪瑙、犀角(牛角)などとあるが、出土品には、白の多い大理石や黒い石である粘板岩のようないわゆる雑石製のものが多い。ただ正倉院御物の中には青石の石帯が有り、その石は七宝の一つとされる、わが国では産出しないラピスラズリ(アフガニスタン産)ともいわれる。はるばるシルクロードによってもたらされた宝石は、聖武天皇の腰を飾ったものか。

 考古館に展示する石帯は、すべては雑石製。黒や緑の班文をもち風化の激しい大理石製、風化の少ないもの、黒色の粘板岩製のものと、ほぼ三分される。いずれにしても奈良時代から、おもには平安前半にかけての、官人のステータスシンボルだった筈。

 こうした遺物の出土地と伝えられる酒津山は、この「よもやまばなし」6話や10話でも取り上げた、高梁川河原となっている酒津遺跡の、すぐ西に続く低い山塊である。

 ここにはかなりな数の横穴石室墳が存在しており、破壊されたものも多いと思われる。だがこの石帯が、古墳時代の遺物でないことから、周辺に古代の古墓があった可能性もある。しかし古墳出土とわざわざ伝えられていることから、古墳を思わす構造の古墓か、あるいは古い祖先の横穴石室墳を再利用して、埋葬された墓に副葬されていた可能性もある。こうした古墳の再利用法は、かなり各地で、知られているのである。

 いずれにしてもこの種の遺物が、ややまとまって出土するのは墓であり、その他では、奈良〜平安期のかつての役所や寺院跡、普通の遺物包含層中のこともある。しかもせいぜい1〜2点出土だけである。

 正確に調べてはいないが、岡山県下では、今までに各地で発見が知られている石帯の数を集めても、おそらく酒津出土の31個には及ばないだろう。ぱらぱらと発見される石帯は官人が落としたのだろうか?それとも1〜2個で利用価値があったのか?

 酒津山で31個も一度に発見されているのは珍しい。1本の帯には10〜15個の巡方や丸鞆を使用するようである。束帯の2〜3本分である。地方でも6位以下なら位を持つ人も多くなってきている時代である。多くの私財を国に寄付することで、位がもらえる、買官も公に行われている。

 こうした傾向が強くなっている時代なら、身分の象徴でもあった、朝服の束帯などは、子孫に伝承されたのではないのか。多くの官人がいたと思われるところでも、あまり石帯などが発見されてないのが、伝承された証拠ではないのか。

 1世紀ばかりも昔の1914(大正3)年に発見された、京都の山科にある西野山古墓からは、今では国宝に指定されている遺物だが、正倉院の鏡と同様な金銀鈿鏡や正倉院にも例が無い金装金具の唐様太刀、その他の注目される遺物と共に、白色の滑石製らしい石帯が、10数個出土している。これなどは死者が身に着けていた装束だったかもしれない。これほどの副葬品を埋葬された場合も、とくに多くの束帯を副葬はしていない。

 また山口県萩市の沖合い、日本海中にある見島には、海岸に200基もの古墳時代末から奈良―平安期の墳墓がある。ここでも石帯が出土している。海辺警備の防人の墓とも言われている。位のある人物もいたのだろう。しかし決して多い数ではないようだ。

 酒津山の石帯も、当然平安時代前半頃の官人の腰を飾っていたはずだが、それが1人のものなのか、複数人物のものなのか、それすらも分からない。雑石製であるから、決して高い身分だったとは思えないが、なぜおおくの束帯が、たとえ一箇所でなくとも、一度に見つけられる近さで埋められていたのか?

 この人物はいったい何者だったのか?・・中央官人の天下り?・・それとも地元出身者だったのか?・・・眼下の酒津一帯では、弥生時代以来、高梁川の川口として沖積が続いている。こうした中で、奈良時代の後半以来、この地の開発で財力を蓄えた人物が、国へ莫大な寄付をした見返りに、この帯を手に入れたのか?・・・本当の持ち主が埋葬されていたのか?・・いくらでも問題はある。

 注目される遺物・いかに立派な遺物などが残されていても、発見されたときの状況や他の遺物などが、全く分からなくなっている時のもどかしさは、幾十年考古学に携わっていても変わらない・・・・そこに有る物にいかに高い価値が付けられても、それに「人」の気配が感じられないのは残念なことである。


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