1970年11月のことだが、大原美術館での名画5点の盗難事件があったことは、美術に関心にある年配の方なら、記憶されている方もあるかと思う。警察の努力で1年2ヶ月の後、全てが無事に返還された事件であったが、1年ばかりの間、専任でこの盗難事件捜査に当たった刑事さんがおられた。長い捜査だったので、考古館の皆とも顔なじみになり、しばしば館へも立ち寄っていた。
当時考古館では、市内の王墓山古墳一帯の遺跡調査中だった。宅地造成に伴っての調査だったが、この時、考古館の主な調査でも述べている、女男岩遺跡なども新たに発見、調査も行った。例の刑事さん、市内各地に聞き込みなどで足を運んでいた際に、我々の調査のことも知っていて、現場へ立ち寄られたことがあった。その時彼は、王墓山古墳の家形石棺も見てきていた。
この古墳の四佛四獣鏡を含む多数の出土品は、東博に蔵されている。一帯の地名が王墓山と呼ばれているのも、この古墳発見に由来しているようだ。石棺の入っていた横穴石室の方は、規模の大きいもののようだが、古くの採石で破壊が激しい。石棺は石室から引き出された状況で、山中に置かれていた。そこは当時調査していた地点に近い。写真の石棺はそのころ撮影したもの、現在では石棺は同地点にあるが、修復されてきれいになっている。
ところで調査現場に来た彼が言うには「あの石棺の材料はおかしなものだ、何ですか?貝殻がいっぱい入っているが・・」と質問した。石棺の表面は風化しており、普通の石に見える。考古学に関心があっても、こちらが注意を促さぬ限り、貝殻などには気の付かぬ人が多いのである。
さすが刑事さん、注意力が違う。その時ずいぶん感心したのを覚えている。この石棺材は岡山県西部の浪形石と呼ばれている貝殻が凝固した貝殻石灰岩で、特異な石材である。いま分かっているこの石で作られた石棺は、岡山県だけで用いられており、王墓山例も含めわずか5例のみである。
この石棺材は岡山県西部の井原市浪形一帯に産し、浪形石と呼ばれている貝殻が凝固した貝殻石灰岩で、特異な石材である。いま分かっているこの石で作られた石棺は、かつての吉備国、岡山県だけで用いられ、王墓山例も含めわずか5例のみである。しかも吉備国では最大級の横穴石室、総社市(備中)こうもり塚、岡山市(備前)牟佐大塚などで用いられている。
考古学を志すもの、この刑事さんには負けられない。同様な根気と、それ以上の注意力が必要だ。遺跡・遺物には聞き込みは出来ない。こちらが根気よく資料を集め、注意深く観察してはじめて何か見えてくる。石棺石材一つにしても、注目すべきことばかりである。
倉敷考古館日記だより
1971(昭和46)年10月12日 火 晴後曇
「・・大変な人出、中橋から財布を河に落とした人がいる、考古館からも竿などなどもって出て、拾う努力したが、とうとうだめ・・・刑事さんいつものように来館、倍賞千恵子さんと握手したと大喜び。」
(新幹線の岡山まで開通は、翌年の1972.3月だが、この頃すでに倉敷では急速に来訪者が増えていた。この日考古館でも720名ばかりの入館者。このあたりは映画などのロケも多く、思わぬところで俳優さんに逢うことも多い。注意力抜群の刑事さんも、楽しい人間的な人。)