今年(2007年)3~6月にかけて、倉敷市真備町の勝負砂古墳がマスコミを賑わした。岡山大学の考古学研究室の調査で、5世紀未の未盗掘古墳だった。竪穴石室の公開見学日には、アクセスのむつかしい場所でありながら、2000余人の見学者があったと聞く。倉敷ということで、当考古館にまで遠隔地からの見学問い合わせがあった。
この古墳の石室内からは、甲冑・刀剣・鏃など多くの武器や馬具類なども発見され、墓の築造法などから見ても、朝鮮半島との関係が強かった武人の古墳だろうと喧伝された。この古墳が大変珍しい未盗掘と伝えられたとき、岡山では古く発見された総社市の随庵古墳 以来で、この種の古墳としては二例目であると伝えられた。実はここの写真の見栄えのしない奇妙な石や錆鉄は、その随庵古墳出土品なのである。
1958年、まさに今から半世紀前、その未盗掘古墳を調査したのは倉敷考古館の私達だった。総社市の簡易水道貯水タンク一つの設置場所として、山が削られて発見されたのが随庵古墳だった。公の調査機関のない時代、県内各地からこうした緊急な相談が持ち込まれ、何の予算もないまま、有無をいう間もない調査に追い立てられていたと言うのが、当時の実態だった。 勝負砂古墳とたいへんよく似た随庵古墳の竪穴石室には、割竹形の木棺も一部残り、甲冑・武器類・馬具のほかに、写真に示した鍛冶屋道具一式、農具類、その上美しい紫水晶の勾玉二個を含む玉類など、豊富な副葬品が存在した。鍛冶屋道具は全国的に見ても、セットが揃って出土した例は30例有る無しである。古墳の多さを思えば、当時鍛冶屋具がいかに珍しい最先端技術の器具であったかが窺える。吉備の国ではこの随庵古墳を含めて4古墳でセットが出土している。吉備と鉄との強い関係を示す重要な遺物と言える。
だがこの古墳の主を、出土品からは武人とも鍛冶屋ともいえない。副葬品から古墳の主の職掌のみか、性別も判断するのは、たいへん困難なのである。
倉敷考古館日記より:1958(昭和33)年12月16日 火 晴 「・・・随庵へは私一人が行き、天井石の実測などをする。・・・見学者が短甲をつついて壊すばかりする・・・水道課の方がせかすこと・・」 (当時倉敷市安養寺で瓦経塚の調査も行っていた。隋庵の調査は人手もなく、出ている遺物の見張りも出来ない状況で、見学者だけは当時も、つぎつぎ訪れていた。工事側からはせかされ、現在の人達には想像も出来ない状況下での、苦しい調査だった。)